豊臣秀吉は諦めていたんじゃないかと思う話

あなたは豊臣秀吉をご存じですか?

豊臣秀吉は戦国時代に活躍した武将です。

織田信長に仕え数々の戦で信長に貢献し、

信長が本能寺の変で自害した後は、本能寺の変を起こした明智光秀を山崎の戦いで倒しました。

その後は織田家に代わって秀吉が力をつけ、ライバルの柴田勝家を賤ヶ岳の戦いでやぶりました。

それからは他の大名を従わせるために、秀吉に従うことを拒否した大名に対して秀吉は戦いを仕掛けて降伏させることを繰り返しては、次々と大名たちを従わせることに成功しました。

その成果があって1590年ついに秀吉は天下統一を果たしました。

秀吉は足軽という位の低い兵士の身分の家出身から最終的には天下統一を果たすまでに大出世したのでした。

次期は前になるのですが、1585年に秀吉は関白になって天皇の政治を補佐することになりました。

秀吉がやったことは戦に関することだけではありません。

まずは太閤検地を行いました。

太閤検地は全国の田畑の広さや米の取れる量を正確に測りました。

こうして面積の単位を統一して漏れなく年貢をとることが可能になりました。

他には刀狩令を出して農民から武器を取り上げて一揆を起こすことを防ぎました。

他にも海賊取締令やバテレン追放令などの法令を出しました。

このように天下統一後にも多くのことをした秀吉にもついに最期の時がやってきてしまいました。

1598年秀吉は数え年62歳でこの世を去りました。

秀吉は自分の息子のことが気がかりだったと言われています。

息子の秀頼はこのとき数え年6歳というまだ子供の年齢であったため。自分で政治を行うことはできません。

そこで、秀吉は亡くなる前に全国の大名に「秀頼の忠誠を誓う」と書かせた文章を提出させました。

さらに、五大老五奉行に「秀頼を守ります」と書かせ血判をおして交換させあいました。

※五大老のメンバー
・徳川家康
・毛利輝元
・上杉景勝
・宇喜多秀家
・前田利家

※五奉行のメンバー
・石田三成
・浅野長政
・増田長盛
・長束正家
・前田玄以

秀吉はさらに五大老に遺書を残しました。

内容は、「くれぐれも秀頼のことをおたのみもうします…」といったもので、とにかく秀頼のことを心配する親心が現われています。

しかし、秀吉はもうこの時点で


豊臣家の天下が続くことをほぼあきらめていたんじゃないかと考察します。

なぜなら今いる豊臣家は数え年6歳という秀頼だけで、

かつて豊臣家を支えていた、秀長や秀次はもういません。

五大老か五奉行の誰かが豊臣家から天下を奪うことは予測していたと思います。

なぜなら秀吉自身が織田家を乗っ取って、

力をつけ最終的には天下統一をした人です。

なので、こういうときには乗っ取りやすいつまり天下を奪いやすいというのは秀吉は熟知していたでしょう。

織田家の場合は、信雄、信孝という成人した織田家の人間がいたにも関わらず秀吉は織田家の乗っ取りに成功しています。

豊臣家の場合はそうした成人した人すらこのときいませんでした。

なのでなおさら天下を奪いやすい状況にあったといえます。

それが多分秀吉にはわかっていたでしょう。

しかし、もうどうすることもできなかったのだと思います。

だからわずかな確率を祈り、

なんとか五大老五奉行の人が豊臣家に忠誠を誓い続けながら

秀頼を支えて豊臣家の天下が続いてくれたらとわずかな思いにすがったにちがいありません。

あるいは豊臣家の天下は誰かに奪われてもこの際仕方ないから

秀頼が小大名としてでも生き残り、豊臣の血筋が残ってほしいと考えたかもしれません。

織田家を乗っ取った経験がある秀吉だからこそこのように思っていた可能性は十分にあるでしょう。

結果としては、家康が豊臣家の天下を奪いそして最終的には豊臣家自体を滅ぼしてしまいました。

※家康としては秀頼を小大名として残そうと考えていた節がありますが。

この結果をみたらおそらく秀吉は泣いていたでしょう。

自分の息子が最終的に悲惨な末路になってしまったのですから。

秀吉は身分の低いところから一代で最高権力者になったまでは良かったのですが、

徳川家と違って後継者に恵まれず、豊臣家の天下は長く続かなかったことは残念ですね。

ではまた。











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