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「丁寧な暮らし。」が自分を苦しめていないか
『句点。に気をつけろ「自分の言葉」を見失ったあなたへ』を読んだ。
ざっくり言えば自己内省に関する本だった。(下に簡単に著者の考えをまとめてみた。)
自己内省と言われると身構えてしまうが、本を読みながら、自分はこうかなとざっくり考えた(考えさせられた)内容である。
著者の考え
会話の時にも、理路整然と話すことが求められる世の中になって来ている。言い淀みや沈黙が許されない世の中になっている。
言い切った言葉には、テキストが言葉の後に句点「。」が続くように言葉と同じ様に、その言葉が事実かのように誤解させる力がある。
「言葉の概念の意味」=「この行動そのもの」という誤解を生んでいないか。それを盲信してしまうことで、自分の行動を縛り自身を傷つけている。
本の中で、下の引用部分に私はハッとさせられた。
「丁寧な暮らし」とか「多様性」とか、概念に基づいて自分をコントロールすること、あるいは概念に自分を従わせることに、僕らは喜びややりがいを覚えたりする。
これは著者の例えだが、自分の暮らしの中にも「丁寧な暮らし」とか「ミニマルな暮らし」のように、こう暮らせたら素敵だよねという概念が溢れている。
そういった概念をそのまま信じてしまって、自分を捻じ曲げて暮らしていると、いつの間にか目的と手段が逆転して「丁寧な暮らしをしなければならない」という脅迫じみた考えに陥ってしまう。
本当は、「丁寧な暮らし。」で句点で区切って分かった気になるのではなく、「丁寧な暮らしとは、〜だ。」と〜の中を自分の言葉で、自分の考えで表さないといけない。
雑誌やYouTubeで見る誰かの丁寧な暮らしは確かに役に立つし参考になる。でもそれはやはり参考に留めておく必要があって、自分にとって丁寧な暮らしとは何かを自問自答して答えを出していく必要がある。
この自省、自問自答は一見面倒くさいように思えるけれど、誰かの生活をそのままコピーして自分を概念に当てはめていくやり方は、きっといつか自分を苦しめることになるだろう。
「丁寧な暮らし」という概念だけではない。世の中には、たくさんの、「生活を豊かにする」とか「仕事が出来るようになる」概念で溢れている。その一つを自分自身に当てはめようとする時、きちんと自分がどうありたいのか、自分中心に考えていく必要があると、認識させられた本だった。