週刊「我がヂレンマ」<6月24日号>
湿度マシマシで暑すぎた月曜日。息をするそばから熱気が体に籠る。やや苦しいとも言える、酷暑。ヒートアイランド現象という単語が既に懐かしい今日この頃、今週も書いていきたいと思う。
それにしても、今日の暑さは、今夏の酷暑の予告編のようで不穏である。どんなホラー映画よりも怖い。現実的に、辛い。冷房が効いた屋内にはいっても、しばらくは汗がひかず、持参したフェイスタオルはすぐにびしょびしょ。これはもう、制汗スプレーを買うべきか。細身でバッグの端っこに収まるスマートなやつを。
あまりに恐れおののいていると、気分が沈んでいくので、今週のコンテンツを紹介(レギュラー三本で変わり映えしないが)。
<メモついて解説と考察>
<購入した書籍の紹介>
<マンデーひとり歌会>
夏の暑さに負けず、モチベーションを高めてやっていく。
そう自分に言い聞かせて、突き進んでいこう(なんてね)。
<メモについての解説と考察>
「粗暴な感傷」
出典は三島由紀夫の作品だったか、インタビュー映像だったかは忘れた。自分勝手に、たいして考えもせず自分の立場を弱者において、おめおめ悲しんでいる。それはつまり粗暴で、短絡的で、見るに堪えないその姿は雨後の路傍の、日向の蚯蚓も同然。
そもそも「感傷に浸る」時点で情けない。
「倨傲(きょごう)」
おごり高ぶること。また、そのさま。傲慢「――な態度」
おごり高ぶれるような結果を残していない。
その態度を反省するような機会がない。ちょっとぐらい倨傲な態度をとって、それを通過儀礼として、謙虚さを得る。そんなルートには乗っていない。乗りたい、ビックウェーブに。
「犀利(さいり)」
『犀』は堅く鋭い意。
・刃物などの、堅くて鋭いさま。
「――な小刀」「――な武器」
・才知が鋭く、物を見る目が正確であるさま。
「――な洞察力」「――な感覚」「明敏――」
犀利な感覚をもって文章を書けたらいいのに。ペンネームの下の名前、犀利にしようかな。
「第6ポンプ」
著者はパオロ・バチガルピ、訳は中原尚哉/金子浩。
化学物質の摂取過剰のために、出生率の低下と痴呆化が進行したニューヨーク。下水ポンプ施設の職員の視点から、あり得べき近未来社会を鮮やかに描いたローカス賞受賞の表題作、石油資源が枯渇して穀物と筋肉がエネルギー源となっている、『ねじまき少女』と同設定のアメリカを描きだすスタージョン賞受賞作「カロリーマン」ほか、全10篇を収録。数多の賞に輝いた『ねじまき少女』でSF界の寵児となった著者の第一短篇集。
ほしいけど売ってないのよ。書店に。
Amazonで買うしかないかな、、
「鹽(エン、アン、しお)」
しお。食塩。化学物質の一つ。塩素。しおづけにする。塩につける。
「塩」は「鹽」の略字。鹽は旧字体。
形声文字(監+鹵)。「しっかり見ひらいた目・人・水のはいったタライの象形。
まぁ常用漢字ではないし、漢字検定1級であるし、読めない人がほとんどであろう。「なんだ、この漢字」という興味だけでメモしたもの。
「単純接触効果:mere exposure effect)
は、(閾下であっても)繰り返し接すると好意度や印象が高まるという効果。1968年、アメリカ合衆国の心理学者ロバート・ザイアンスが論文にまとめ、知られるようになった。
ザイアンスの単純接触効果、ザイアンスの法則、ザイアンス効果などとも呼ばれる。対人関係については熟知性の原則と呼ばれる。
はじめのうちは興味がなかったものも、何度も見聞きするうち、次第に良い感情が芽生えてくるという効果。
たとえば、よく会う人や、何度も聞いている音楽は、好きになっていく。これは、見たり聞いたりすることで作られる潜在記憶が、印象評価に誤って帰属されるという、知覚的流暢性誤帰属説(misattribution of perceptual fluency)で説明されている。また、潜在学習や概念形成といったはたらきも関わっているとされる。
「尻の溝に砂粒を感じて」
これは小学生のころ海水浴に家族でいったときの記憶。ひとしきり父親と海水浴を楽しんで、貝を拾って、シャワーを浴びているその瞬間。入り込んだ砂。水着のパンツを引っ張って砂粒を流す。冷房が効いた民宿の部屋にもどって、ガリガリ君のサイダー味、テレビでは『ビーチボーイズ』の再放送。そんな、海の記憶でした。
<購入した書籍の紹介>
「城」
カフカ
前田敬作・訳
測量師のKは深い雪の中に横たわる村に到着するが、仕事を依頼された城の伯爵家からは何の連絡もない。村での生活が始まると、村長に翻弄されたり、正体不明の助手をつけられたり、はては宿屋の酒場で働く女性と同棲する羽目に陥る。
しかし、神秘的な“城”は外来者Kに対して永遠にその門を開こうとしない・・・・・・。
職業が人間の唯一の存在形式となった現代人の疎外された姿を抉り出す。
フランツ・カフカによる未完の長編小説。1922年執筆。生前は発表されず、死後1926年にマックス・ブロートによって編集公刊された。カフカの3つの長編小説『失踪者』『審判』『城』の中では最も成立時期が遅く、また最も長い作品である。
「決定版 カフカ短編集」
カフカ
頭木弘樹・編訳
『変身』『城』『審判』を超える物語がここに。
『短編もすごかった! 誰も真似できないカフカだけの世界。
20世紀を代表する巨星の決定版短編集。』
この物語はまるで本物の誕生のように脂や粘液で蔽(おお)われてぼくのなかから生まれてきた――。
父親との対峙を描く「判決」、
特殊な拷問器具に固執する士官の告白「流刑地」、
檻の中での断食を見世物にする男の生涯を追う「断食芸人」。
遺言で原稿の焼却を頼むほど自作への評価が厳しかったカフカだが、その中でも自己評価が高かったといえる15編を厳選。
20世紀を代表する巨星カフカの決定版短編集。
『判決』
『火夫』
『流刑地にて』
『田舎』
『断食芸人』
『父の気がかり』
『天井桟敷にて』
『最初の悩み』
『万里の長城』
『掟の問題』
『市の紋章』
『寓意について』
『ポセイドーン』
『猟師グラフス』
『独身者の不幸』
「絶望名人カフカの人生論」
カフカ
頭木弘樹・編訳
『一番得意なのは倒れたままでいることです←ラブレターの一節です』
『文豪による思考ネガティブ名言集。』
「いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです」これは20世紀最大の文豪、カフカの言葉。
日記やノート、手紙にはこんな自虐や愚痴が満載。彼のネガティブな、本音の言葉ばかりですが、思わず笑ってしまったり、逆に勇気付けられたり、なぜか元気をもらえます。誰よりも深く落ち込み、誰よりも情けない弱音をはいた、巨人カフカの元気のでる名言集。
目次
はじめに カフカの肖像――いかに絶望し、いかに生きたか
第一章「将来に絶望した!」
第二章「世の中に絶望した!」
第三章「自分の身体に絶望した!」
第四章「自分の心の弱さに絶望した!」
第五章「親に絶望した!」
第六章「学校に絶望した!」
第七章「仕事に絶望した!」
第八章「夢に絶望した!」
第九章「結婚に絶望した!」
第十章「子供を作ることに絶望した!」
第十一章「人づきあいに絶望した!」
第十二章「真実に絶望した!」
第十三章「食べることに絶望した!」
第十四章「不眠に絶望した!」
第十五章「病気に絶望・・・していない!」
あとがき「誰よりも弱い人」
文庫版編訳者あとがき
解説「山田太一」
「審判(角川文庫)」
フランツ・カフカ
本野亨一=訳
ある朝、アパートで目覚めた銀行員ヨーゼフ・Kは、突然逮捕される。
Kはなぜ自分が逮捕されたのか、まったく判らない。逮捕した裁判所も、いっさい理由を明らかにしない。弁護士を頼んでも要領を得ず、実際に法廷に出ても、何も明らかにならない。
正体不明の裁判所と罪を知らないKのあいだで、はてしない問答がつづくのだが・・・・・・。
『城』『アメリカ』と長篇3部作をなす、未完の傑作。
「訴訟(光文社)」
フランツ・カフカ
丘沢静也・訳
原題のDer Processは「訴訟」の意。『審判』とは別訳で光文社古典新訳文庫のバージョン。
1914‐1915年執筆。理由の分からないまま裁判を起こされた男ヨーゼフ・Kを通してカフカは不条理を描く。生前は発表されず、死後1925年にマックス・ブロートによって編集・公刊された(ただし作中の一挿話のみ、生前に「掟の門前」のタイトルで独立して発表されている)。
結末部分が書かれているものの、途中の章は断片に留まっており全体として未完の作品である。
『銀行員ヨーゼフ・Kは、ある朝、とつぜん逮捕される。
なぜなのか? 判事にも弁護士からもまったく説明されず、わけのわからないまま審理がおこなわれ、窮地に追い込まれていく・・・・・・。
「草稿」に忠実な、最新の〈史的批判版〉をもとに、カフカをカフカのまま届けるラディカルな新訳!』
「実存と人生[新装版]」
フランツ・カフカ
辻瑆(つじひかる)・編訳
いわば、「彼自身によるカフカ」――その箴言(しんげん)と比喩の迷宮。
十五 秋の小道のようなものである。きれいに掃いたかと思うと、
もうまた枯れた葉っぱでおおわれてしまっている。
二二 おまえはやらなければならない宿題そのものなのだ。
あたりにはどこにも生徒はいない。
カフカの世界、それは名状しがたい不安の告白であり、日常生活における〈ある闘い〉の記録である。
深い実存の寓意は、あらゆる解釈を受け入れると同時に鋭く拒否する。それは一面では、難解さを表すものかもしれないが、汲めどもつきぬ豊かさ、魅惑の証でもある。
本書はブロート版全集の『田舎の婚礼準備』と『日記』の巻から、アフォリズムのすべてと、比喩、そして生活表明に関する文章を訳者によるオリジナル編集でおくる。
カフカのテクストは、長いものにせよ短いものにせよ、それぞれ独自の振幅と強度を有すると同時に、それらすべてに「カフカ的」としか言いようのない何かが通底している。
本書に収められた小さな言葉の群れもまた、そうした「カフカ的」なものの結晶である。生きることと書くこととが相即不離のカフカにとって、本書はいわば、「彼自身によるカフカ」であり、その箴言と比喩の迷宮へとわたしたちを誘う。
今回はあまりも「カフカ」すぎる。カフカ関連しか買っていない。Amazonのレビューには、カフカというかドイツ文学「ガチ勢」が散見され、訳者によって評価が分かれる、そんな、今でも熱狂的なファンを持つ20世紀を代表する文豪。
そのマイナス思考というか、自己評価の低さにシンパシーと縁を感じて、一気に、購入してしまった。
フランツ・カフカは没後100年。
安部公房は生誕100年。
なんだろう。やっぱり縁でしょうか。ま、マイペースに読んでいきます。
<マンデーひとり歌会>
「五・七・五・七・七」と「季語はいらない、使用可」というルールのみを守り、風流でも美麗でもなんでもない、どうしようもない、歌をひたすら思うままに詠っていくコーナーです。
もう夜10時です。あと二時間で、締切です。かといって焦らず楽しんで、最低でも十首は詠ってやる。ウィキペディアで「短歌」を調べてみても、しゃらくさい内容で読み気がおこらない。
我が家には、短歌集が町田康先生の『くるぶし』ぐらいです。つまり師匠が先生一人なんです。
他にはまだ、興味が湧いていないのです。
前置きも限界に達したので、詠っていきます。
夏の日に天空の城訪れて穢れを知りて地に足つくよ
冷房があまりに効いて寒すぎるそれでも変えぬ設定温度
人の道分からぬ馬鹿よ消え失せろ何者なぞと知る気もないや
鼻糞をベッドの端につけてまう悪癖なれど我のベッドぞ
自転車がパンクしたとて墓参り迫るお盆が緩める財布
振り返る君の澄ました濡れた髪夕陽海辺は夜へ溶けゆく
金曜日蒙古タンメン通いつめ鍛えられたなわれの粘膜
風が吹きヅラが飛んだよそっと落ち悲しいオジの拾うその手は
甲子園球児の夢迸り白球追って熱き応援
都知事選候補は誰もドブばかりドブをさらって希望は見えず
狭い家老老介護とも倒れ思い出さえも霞んで沈み
里帰り実家住まいに意味はなく強いてやるなら墓参りかな
勢いと惰性のみで十二首、詠ってみましたがどうでしょうか。
締切まであと30分程度なんで焦りはない。何故ならもう終わりだから。追いつめられると余裕が出てくる人間で、余裕があるときは不安の花が咲くわたしですが、短歌はそこそこたのしい、わたし。
もう少しエレガントな短歌を詠いたい。賢いと思われたいとの、欲望がふつふつと湧いては、消えゆく泡沫。しぶきをあげる自尊心。
そんなところで、今週はここまで。もう終わり。
明日からはショートショートの三日間が始まる。
ネタ作りに勤しむわたし、深更さらに暗く沈む、そんなひととき。了。