【映画感想文】『本日公休』と『ぼくが生きてる、ふたつの世界』

映画に音は欠かせない。

映画館で観る醍醐味もそこにある。
ましてや昨今の映画館の音響設備、技術には恐れ入る。
臨場感があふれ出る。

台湾映画本日公休を観た。

鋏《はさみ》のシャカシャカと鳴るリズミカルな音
髪を切る 厚みのあるジョグジョグ 先の方でシャシャ
白髪染めクリームを泡立てるソックソック
頬にあてた剃刀《かみそり》で髭をそり落とすジョリジョリ
サッサッサッとタオルで襟足についた髪の毛を払う

町の人から長年にわたり愛されている理髪店主の誠実な仕事ぶりを表すには、手元に寄った映像だけでは不十分なのである。五線譜に書かれているかのような、昨日も今日も同じ音の響きとあいまって確固たる安定感をもたらし、腕のある理髪師なのだという説得力につながる。

師からの教えを忠実に守り、経験を重ね、親子三代に渡って利用される理髪店を営む主人公の女性は、時代遅れのやり方に意見する次女の言葉もどこ吹く風。実務的な仕事に就き、結婚して家を持ち安定した暮らしを手に入れる。それが幸せなのだという人生観を持つ彼女のリアリティは、セリフだけではなく仕事の「音」を通して伝わってくる。映画ならではの楽しみだ。

そして、どこの国でも一番近い他者、親子の関係においての不協和音は、そんな「時代が引きずる人生観」の相違から奏でられるのであろう。 
台北でファッションスタイリストをする長女は結婚せずに同棲中、同じ町のヘアサロンで美容師をする次女は幼子を残して離婚、一攫千金を夢見て定職に就かぬままの長男は自動掃除機や太陽光パネルを売り歩く。三人の子どもらは、みな自分ごとでせわしなく、実家の店にはなかなか顔を見せない。唯一、近くで自動車修理店を営む次女の元夫だけがときおり自身や息子の散髪のために訪れ、何かと手を貸している。

時の流れは早く、人生は続く。老いはゆっくりじわじわとやってくる。

昨日と今日の音色が明日は若干変わるだろうか。

ある日、遠くの町へ越したあとも通ってくれていた常連客で、夫の闘病や葬儀で世話になった恩人が病の床に伏したことを知る。
彼女は店に「本日公休」の札を掲げ、膝の痛みを抱え運転に不安ながらもひとり車を動かし、出かけていく。その常連客の散髪をするために、好物の手土産を助手席に載せて……。

「あなたのような常連客と話ができるからこそ、私もなんとか生きていけるのよ」 

清潔に洗濯しアイロンされた白いケープがパーンという音とともに広げられ、いつにも増して丁寧な、そしてやさしい音が鳴り響く。

映画は色である。

上記の作品にあげた、映画に不可欠な要素の「音」がない。
日本映画ぼくが生きてる、ふたつの世界には、全く無音の場面が二か所ある。
一か所めは、のっけから、つまり冒頭のシーンから音声が聞こえてこない。オペレーション事故ではない。意図である。
静かなスタートに画面いっぱいに拡がる色が強烈に飛び込んできて胸をざわつかせる。
音の情報がないとき、私たちは視覚に頼ろうとする。いったい何だろうこれは、と思っている間にカメラが引き、その色の主が姿を現す。
それは漁船の一部だった。それから港に置かれる道具が大写しになる。そして、船底にペンキを塗っているのは主人公、ぼく、の父親であり、聴覚障がいのある「ろう者」であった。

ここで作品の細かな内容は知らなくとも、主人公がコーダ(CODA=Children of Deaf Adults)と呼ばれる”きこえない”親から生まれた”きこえる”子どもであるというぐらいの情報は持つ観客は、一瞬たじろぐ。

聞こえないというのはなんと孤独なことだろう、と。

いや違う。
その後に「音」が現れたときの安堵感を思うと、聴者の私たちは「見る、聞く」ということで世界を認識しているのだと改めて気づかされる。
したがって、聞こえないことを孤独と私が感じたのは普段聞こえているからこそであり、その喪失に苦しさを味わったにすぎない。
中途失聴者は別にしても、もともと音のない世界に生まれ育った「ろう者」にとって、その状態こそが世界そのものであり、何を同情されることがあろう。
彼らを孤独にさせるとしたら、それは私たち聞こえる側の問題だ。とするなら、同情ではなく、個々を尊重した配慮こそが求められるはず。
その橋渡しができるのがコーダであり、同時にそれは必然、彼らが重荷を背負わされることにもつながる。

この映画は、そうしたコーダの葛藤と、特殊な家庭を通して投げかける、普遍的な家族の物語であった。

色の印象は冒頭のシーンだけに終わらない。
お食い初めの膳に並んだ料理、祖父の上半身に彫られた刺青《いれずみ》、トンネルを抜けた先の青々とした山の樹々……。

高校1年のとき机を並べた全盲の友人は、「おはよう」と声をかけただけでそれが私だとすぐに気づいていた。視覚に障がいがあるから余計に聴覚が敏感になるのだとすると、「ろう者」の視覚の強度が高いことも自然なことなのだろう。話す内容は聞こえなくとも、その表情から悪口を言われていることや蔑まれていることは伝わる。それがつらいという当事者の気持ちを最近ある本(『ろう者の祈り』)を読んで知った。

そんなことを思いながら、一方で、目に入っているはずの美しい世界を「見えて、聞ける」私たちが見過ごしてしまうなか、日々それらを感じている彼らの豊かさを思った。この映画の色彩が教えてくれたことである。

映画は時系列を追って”ぼく”が生まれ成長する点描(赤子、乳児、幼児、小学生、そして成長した”ぼく”が同一人物に見える。外国映画では当り前のことがなぜか日本映画では似ても似つかぬ子役が登場するのが常であることを思うと、あっぱれ!だ)のあと、故郷を出て都会で暮らすなかでコーダであるというアイデンティティと向き合っていく姿を描いていく。

しかしコーダであることが、”ぼく”の全てでもなければ、一部でもない。
それは、地中にしっかり張られた根であり、そこから枝葉を広げていけば良いのだ。
そう気づいた”ぼく”に観客はひとり一人が抱える負の面を重ね合わせもし、正に向かう力を感じとることにもなる。

無音のシーンのもう一か所は、前述するような「音」に成り代わる「色」が登場するわけではない。
そうではなくて、
音がないのに、確かに聞こえてくるのだ、観客のもとに。
それは映像のなかの音がであり、劇場にいる私の、となりに座る誰かの、発するものがである。

そしてまた、その音が届いていないと思われる人にも、きっと届いているだろう祈りが被る。

公開中の映画のためネタバレにならぬように遠回しな表現になってしまったが、『本日公休』の理髪店主のような仕事への誠実さと裏打ちされた技術の職人芸をどっぷり味わうことのできる、呉美保監督のこの作品をぜひ映画館で堪能してもらいたい。
見慣れた町や風景の「わたしたち」の映画を本当はもっと観たいのだけれど、お金を払って映画館に足を運ぶに値する日本の劇映画が滅多にないなか、これは「当たり!」だった。
『そこのみにて光輝く』を見て度肝を抜かれた若い才能に拍手を送った私は、9年振りの新作に、そうした意味での感謝の気持ちを付与したい。

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図らずも今回とりあげた両作品の監督はどちらも女性で、年齢も3歳半しか違わない。また二人とも「地方」出身者であり、映画の舞台は、台中と台北、岩手と東京だ。ローカルなものをきちんと表現することでグローバルな共感を得られるのだということのお手本がここにある。
拙文から興味を持ち鑑賞のために劇場へ足を運んでもらえたら、この上ない喜びである。
他業種と比べてもさらに男性優位社会である映画業界で、監督として作品を発表し続けているミドル世代の二人に心からのエールを送る。








 




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