村上春樹『スプートニクの恋人』感想
自己喪失というテーマ
(ちょっと前に読み終わった本の感想なので、うろ覚えのところもあります)
この物語の主要な登場人物の三人のうち、二人が「自分を失う」ことになる。「ミュウ」に関してはその「自分を失う」ことが象徴的に描かれていた。しかし、その件の場面(自分が気味の悪い男と性交している場面を外から眺める場面)はあくまで、「自分を失う」ことの具現化されたものであって、原因ではない。もう一人の自分の存在と、その性交によって彼女が失われたのではない。原因は他にある。ピアノの演奏家としてキャリア形成を行ってきた彼女の背景から具体的な原因を推察することは可能かもしれないが、差し当たりその必要はないと思うし、僕は興味がない。重要なのは、自己喪失が何かシグニフィカントな出来事なしに起こってしまうということだ。
「僕」の自己喪失
「僕」(主人公K)の自己喪失はそのような事情をよく表していると思う。彼はギリシアの小島から帰ってきたところ、自分が失われていることに気がつく。ギリシア滞在中に幾つかの重要な出来事はあったと思う。そもそも当地に赴く理由が彼が思いを寄せている「すみれ」の失踪だし、そこで彼はすみれの残した文章を読むことになる。そしてすみれは見つからないままだった。また、ミュウの経緯、彼女の自己喪失に関して聞くことにもなる。このようなギリシアでの出来事が直接的な原因になっているのか、それとも元々彼の中に胚胎していた何かがギリシアで孵化したのかはわからない。ともかく彼にも自己喪失が起こった。
ここから一つ、つまらない指摘をする。彼は帰国後、自己喪失を自覚しつつも教師としての自分の勤めをこなし、生徒の母親であるガールフレンドとの関係を終わらせる。無気力に何もしなくなるわけではない。これは、彼がすでに生活のルーティンを確立してしまっていたからだろう。自己喪失に陥った時に、惰性で続けることのできるものがあれば、そしてそれが生計を立てる仕事ならば、生きていくことができる。今これを書いている僕自身が無気力な自己喪失状態に陥っているような気がしているが、僕の場合は惰性でできることがネットを見たりゲームをしたりということだったので、本業であるはずの学業ができなくなった。学業は僕にとって精神的にも肉体的にも多くのリソースを要求するものだったので、彼のように自己を失いながらも社会的に生き続けるということができないのだ。
もちろん、時代的なものもあるのかもしれない。この小説の発表された時代(99年)よりも今はより速度を要求される時代だし、より空白を許さない時代になっているように思える。もちろんそのような傾向に著者が無警戒だったとは思わない。『ダンス・ダンス・ダンス』では高度資本主義が一つのテーマになっていた。我々は多かれ少なかれ「文化的雪かき」(やらなくてもいいけど、誰かがやらなくてはいけない仕事と理解している。違ったかな)に従事することで賃金をもらって生活している。まあ、『ダンス』が高度資本主義への批判意識を持っている人に勧める本だというのは違うと思うけど。
警備員、「文学」、「漁師」
『ダンス』といえば、本作にも反エリート意識をもって嫌味たっぷりにくどくど話す人物が登場した。終盤に登場するスーパーの警備員だ。『ダンス』では二人の警官、「文学」と「漁師」がそうだ。このような人物は何なのだろうか。立場を利用する人間をやっつける痛快さを演出するためだとしたら、あまりにも唐突な気がする。実際にそのような人間が多いとも思えない、多分(つまり、彼らによって小説が「リアルに」なることはないだろう)。とすると、彼らは何かの象徴ということになるのだろう。今日のようなミクロでマクロな(個人単位でアカウントなりアバターを持つことができ、そこでの言動が地理的な条件を超えて衆目に晒される)状況においては、つねに各個人が警備員や「文学」のような目にさらされていると考えることができる。そして、そのような視線を内在化せざるを得ないということも。とりあえずはそういうことと考えておこうか…
すみれは喪失を免れた?
さて、本題に戻ろう。自己喪失に関して。三人目のメインキャラクター・すみれは結局のところどうなったのだろうか?彼女は現実的に、つまり肉体的には失踪するものの、精神的には喪失を免れたように感じる。これはもしかしたら自己喪失に関する何事かを述べているのかもしれない。彼女は自身の意識の中にある記憶を辿り、そして憧れの相手を求めて現実の世界から忽然と姿を消した。この物語でミュウと同じかそれ以上の超常体験をする。それにもかかわらず、彼女は失われていないように見えた。先に自己喪失は本人すらも自覚していないところで起こるかもしれないと書いたが、それはつまり、客観的にはどんなに些細と思えることでも自己喪失が起こってしまいうるということだ。しかしそれとは表裏一体のこととして、客観的には酷いことであっても、驚嘆すべきことであっても、実際に人格には何も損傷を与えないこともあるということがすみれの件で表現されているのかもしれない。