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聖武天皇と奈良の大仏③『奈良時代の僧は今の国家公務員だった?』
みなんさん、僧(お坊さん)といったらどんなイメージですか?
「お寺にいるけど、普段は何してるかわからない」
「法事のときお経詠んでくれる」
たま~~に電車やバイクに乗ってるのを見かける程度で、
日常生活で出会うことや関わりをもつことのない存在です。
墓参りや法要以外で接することはまずないですね。
ですが、奈良時代は違いました。
奈良時代の僧は、今でいう国家公務員でした。
びっくり!!
お坊さんが国家公務員だなんて!!!
なぜか?
その理由は、以下のとおりです。
仏教が国家の統治に利用されていたため
奈良時代の仏教は、国家によって保護されており、僧侶は国家公務員として扱われていました。
そのため、僧侶は、官寺に属し、官寺で修行し、官寺で布教を行うことが求められていました。
仏教は、当時の日本社会において、大きな影響力を持っていました。
医療技術がなかった当時、仏教が最先端科学だったのです。
いわば僧侶は、科学者でもあり医者でもあったのです。
そのため、国家は、仏教を国家の統治に利用しようとしました。
僧侶は、人々の精神的指導者として、民衆に大きな影響力を持っていました。
そのため、国家は、僧侶を国家公務員として扱うことで、僧侶を国家の統制下に置き、民衆を統治しようとしました。
僧侶の教育や生活を国家が保障するため
奈良時代の僧侶は、高度な教育を受け、厳しい修行を積んでいました。そのため、国家は、僧侶の教育や生活を保障することで、僧侶の質を高めようとしました。
このように、奈良時代の僧は、国家の統治に利用され、僧侶の教育や生活を国家が保障するために、国家公務員扱いでした。
なお、僧侶の国家公務員扱いは、平安時代以降、徐々に廃止されていきました。
奈良時代の仏教は、国家によって保護され、重要な役割を担っていました。僧侶は、国家のために祈祷や呪術を行うだけでなく、教育や文化の普及にも携わっていました。
そのため、僧侶は政府から俸禄や官位を与えられ、国家公務員として扱われていました。
また、僧侶は、政府の命令に従い、寺院の建設や修理、仏教の布教などを行う義務を負っていました。
具体的には、以下のような役割を担っていました。
天皇や貴族の祈祷や呪術
官庁の記録や経典の写経
僧侶の教育や養成
庶民への仏教の布教
奈良時代の僧侶は、国家の重要な役割を担う存在であり、国家公務員としての側面をもっていたのです。
現代とはかなり違いますね。
なお、奈良時代の僧侶は、官位によって等級が定められていました。
最高位は「大僧正」で、次いで「大法師」「権大僧正」「権大法師」と続いていました。また、僧侶は、官位に応じて、俸禄や衣食住なども支給されていました。
この制度はいつまで続いたの?
この制度は、平安時代初期まで続きました。平安時代初期になると、仏教の国家からの保護が薄れ、僧侶の官位制度も廃止されました。
具体的には、平安時代初期の桓武天皇が、仏教の権威を抑制するために、僧侶の官位制度を廃止しました。これにより、僧侶は国家公務員ではなく、個人の信仰に基づいて活動するようになったのです。
なお、僧侶の官位制度は、その後も復活されることはありませんでした。しかし、僧侶は、依然として国家や社会に重要な役割を担い続けました。
その後、仏教はどうなっていったの?
平安時代初期、桓武天皇が僧侶の官位制度を廃止したことで、仏教は国家からの保護から外れ、民衆の間に広まるようになりました。
この流れを受けて、平安時代中期には、最澄によって天台宗、空海によって真言宗という新しい宗派が興されました。天台宗と真言宗は、いずれも密教を重視する宗派であり、庶民の信仰を集めました。
また、平安時代後期には、浄土教が広まりました。浄土教は、阿弥陀仏の救済によって、誰でも極楽浄土に往生することができるという教えであり、庶民の間で大きな支持を集めました。
このように、平安時代を通じて、仏教は民衆の間に広まり、日本の文化や社会に大きな影響を与えるようになりました。
具体的には、以下のような変化が見られました。
仏教寺院が全国に広まり、庶民の信仰の場となった。
仏教の教えや儀式が、文学や芸術など、さまざまな文化に影響を与えた。
仏教の戒律や道徳観が、社会の規範として定着した。
平安時代の仏教は、日本の歴史において、大きな転換点となったといえるでしょう。
そんな奈良時代の国家大事業であった、奈良の大仏にクローズアップしてしばらく考えていきたいとおもいます。
お楽しみに!