渋沢栄一 なぜ『論語と算盤』?なぜ『仏典と算盤』でなかった?
(以前、「渋沢栄一」と「アニタ・ムイ」の話が一つの文章内にあったのを今回別々の文章にしました。 令和6=2024年10月15日)
最近、渋沢栄一の一万円札が発行されたことにともない、渋沢が『論語と算盤[そろばん]』を書いたということはよく報道されています。
そういう報道を聞いている時、私の脳裏には一つの疑問が浮かんできました。
「なぜ『論語と算盤』だったのか。なぜ『仏典と算盤』でなかったのか」と。
渋沢栄一(澁澤榮一)のような、真面目で社交的な人ならその生涯には無数の仏教行事に参加し、寺院・僧侶の世界にも多数の知り合いはいたでしょうし、『論語講義』全7巻(講談社学術文庫の場合)を書いたほどのインテリなら、仏教(佛教)を学ぶこともできたでしょう。
しかし、私は『論語講義』は全巻読みましたが、渋沢栄一の仏教への言及というのはあまり無かったです。
これは渋沢栄一の儒教徒としての強いアイデンティティーという面ももちろんありましょうが、彼の仏教に対する知識が案外無く、更にその原因を探れば、それは日本の風土として、
実は、仏教は日本に案外普及していないのではないか、
という「結論」に私は達してしまっています。
こういうと、
「そんなことはない。確かに我が国では『自分は無宗教だ』などと言う人はけっこういるが、そういう人たちも、結局、けっこう普通に、初詣で・葬式・墓参りなどには行っている。」
という反論が出てくるでしょう。
それはそうですね。
でも、どうでしょう。
そういう諸行事に参加した時、お経の訳本や解説書を、寺院・僧侶・葬儀会社・喪主等から配布されたり、あるいはあなたや家族やお仲間が持参なさったりしているでしょうか?
そういった経典の内容に関する具体的な情報が何も無い中で、意味も分からず、ただ漢文の棒読みを聞いているだけ、ということはないでしょうか?
私の場合は、圧倒的にそうでした(人さまを批判するだけでは意味が無いので、ある時期からは、お経の訳本を持参するようにしていますが)。
それでも、書き下し文(文語日本語)の読み聞かせでもあれば、口語日本語ほどではないにしても、けっこう国民は経典の中身を理解したことでしょう。
が、現実は、音読みの棒読みという特殊な読み方がずっと仏典の読み方の基本だったため、その内容は普及・定着しなかったのだと思います。
漢字・漢文というのは非常に視覚的な情報伝達手段で、文字を使わないとその機能が大幅に落ちる、という特徴があります。
たとえば、『般若心経』のある部分、
「むーうーくーふー」
を、音声だけで聞いても、何の意味もわかりません。イメージもわきません。
しかし、文字を使えば即座に意味が分かるのも漢字・漢文の特徴・長所です。
今の字句の場合、文字で記すと、
「無有恐怖」
になります。
この漢字を見れば、読者が日本人なら「むゆうきょうふ」または「むうくふ」、北京人なら「ウーヨウコンプー」、広東人なら「モウヤウホンポウ」と、それぞれ再生される音[おん]はバラバラですが、
「恐怖が無い」という意味は一発で分かります。
或いは、せめて
「恐怖あること無し」
という書き下し文なら、聞くだけでもある程度は分かったでしょうが。
また、漢文の棒読みというのは、日本語や漢字の原則を崩すものでもあるのです。
日本語の漢字には、「長音」「短音」の違いがあります。
「空」なら「くう」
「苦」なら「く」
といったように。
ところが、一字一拍という棒読みの習わしから言うと、
「空」はそのまま「くう」で、
「苦」も長音化されて、「くー」になり、
本来180度意味が異なるプラス概念の「空」とマイナス概念の「苦」が同じになってしまうのです。
具体例を挙げるなら、『般若心経』の
「五蘊皆空[ごうんかいくう] 、度一切苦厄[どいっさいくやく」
の部分は、
「ごーうんかいくうどーいっさいくーやく」
になり、これを耳だけで識別するのは甚だ困難です。
せめて、
「五蘊[ごうん]は皆[みな]空[くう]にして、一切の苦厄[くやく]を度[ど]す]
という
書き下し文でもあれば、少しは楽になるのですが、日本の仏教界の習慣として、仏典はあまり書き下さないので、文意は分かりにくいのです。
更に、例えば『般若心経』の場合、慣習として、字句すなわち意味の切れ目も無視して、息継ぎ無しで、続けざまに漢文を棒読みするため、漢訳者「三蔵法師」玄奘さまのせっかくの工夫も台無しになっています。
その一例です。
「舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色 受想行識 亦復如是」
今は、とりあえず意味を考えず、(↑)上記の漢字の並びだけをご覧ください。
他は全部4字なのに、「舎利子[しゃりし]」だけ3字ですね。
ですから、この字句だけ浮いてしまいます。
でも、浮いてしまってよいのです。
いや、浮いてしまった方がよいのです。
「舎利子」は『阿弥陀経』に出てくる「舎利弗[しゃりほつ]」さまと同じで、人名です。
ここは、その舎利弗さまに「舎利子よ!」と呼びかけているところで、文章の本文ではないのです。
この部分は、「舎利子」だけ3字にし、本文は綺麗に4字で揃えたため、呼びかけと本文の区別が鮮やかになっています。
しかし、これを、息継ぎも無く、
「しゃーりしーしきふーいーくうくうふーいーしき、、」
と
ぶっ続けに読むと、人名「舎利子」が本文の中に埋没してしまい、聞く時、とても識別しにくくなります。
もう一例。
「心無罣礙 無罣礙故 無有恐怖 遠離(一切)顛倒夢想 究竟涅槃」
やはり文字の並びを見てください。(↑)
これまた、綺麗に4字(または8字、または6字)で切れていますね。
書き下し文は
「心に罣礙[けいげ]無く、罣礙[けいげ]無きが故[ゆえ]に、恐怖有ること無く、(一切の)顛倒[てんどう]せる夢想を遠く離れ、涅槃[ねはん]を究竟[くきょう]す」
で、
現代日本語訳は、
「差しさわりや妨げは無く、差しさわりや妨げが無い故[ゆえ]に、恐怖も無く、(一切の)転倒した妄想を遠く離れ、涅槃を究[きわ]める」
となります。
注目すべきは
「無有恐怖」(恐怖有ること無し)(恐怖が無い)
です。
『般若心経』の中で、内容的に最高の部分ですが、形式的にも前後の字句同様4字になっていて、本文の中で安定したポジショニングをしています。
意味だけから言うなら、本当は
「無恐怖」
でもよいのです。
ただ、それだと、3字になってしまい、周辺とのバランスが崩れてしまうのです。
ここにも玄奘さまの工夫が感じられます。
要するに、文字が無く、書き下し文にもせず、漢文の音[おん]だけを聞いても、ほぼ「絶対」と言っていいほどに、お経の内容は分からないのです。
日本の仏教界で長らく行われてきたのは、お経をどのような節回し[ふしまわし]で読むか、仏具を運ぶ時はどのような姿勢を取るか、という「所作[しょさ]」「作法」でした。
私が浄土真宗(西)本願寺派「中央仏教学院」の学習課程(在家対象)で勉強していた時、
(浄土真宗なので『般若心経』は学習対象ではなく、主たる学習対象は『正信偈[しょうしんげ]』でしたが)、
『正信偈』について、どのような節[ふし]で読むかということはやかましく言われました。
試験の際、我々受講生は、講師の面前で一人ひとり読誦[どくじゅ]しました。
おかげで、『正信偈』は今や割と正確な節回しで読めます。
一方、「『正信偈』のこの部分を翻訳せよ」という訓練や出題は、講義でも試験でもありませんでした。
要するに、浄土真宗であれ、他宗派であれ、私のこれまでの経験から言えば、日本の「仏教」とは、「華道」「茶道」「弓道」等と同じように、
先ず「型[かた]」という外身[そとみ]から入り、思想内容は後から、
という「道[どう]」の一種「仏道」(私の造語)とでも言うべきものでした。
一方、「仏教」の「教」の部分、すなわち仏典の中身[なかみ]については、それを直接、翻訳・解説・理解することには – そういう努力をしている人もいますが、概して - 関心が低く、内容は案外普及していない、というのが私の「結論」です。
振り返って、『論語』または『老子』『韓非子』『史記』『漢詩』などの(仏典以外の)いわゆる「漢籍」は、仏典とは対照的な読み方がされてきました。
実験をしてみましょう。
皆さんもよく知っている漢籍のフレーズを、わざと仏典の真似をして、漢文の棒読みにしてみますから、それが何か考えてください。
Q1 「がくじーじーしゅうしー、ふーえきえつこー」
Q2 「げつらくうーていそうまんてん」
まだ、分からないですよねえ。
ヒントを出します。
書き下し文です。
H1 「まなんでときにこれをならう、またよろこばしからずや」
H2 「つきおち からすなきて しも てんにみつ」
これで分かったも同然ですが、最後に漢文を出しましょう。
A1 「學而時習之、不亦説乎」
A2 「月落烏啼霜満天」
どうです。始めの文字無しの漢文棒読みで、分かりましたか?
分かるわけないですよね。
しかし、漢籍の場合は、
「学んで時にこれを習う、また説[よろこ]ばしからずや」
「月落ち 烏[からす]啼[な]きて 霜[しも] 天に満つ」
と書き下し文にしてきたので、
日本人の間にはけっこう浸透・定着してきたと思います。
今、我々の日常会話でも
「彼の言うことは営業トークだから、『巧言令色、鮮[すくな]し仁』だと思うよ」
とか、
「本日はありがとうございます。こうして会場を見渡してみますと、まことに『朋あり遠方より来たる』の感がいたします」
くらいの『論語』の引用は別に珍しくないでしょう。
一方、それらに匹敵する我々日本人の間で普及している仏典からの引用って、ありますかね?
改めてまとめますと、私が言いたいのは、以下のことです。
「 渋沢栄一が『論語』に関する書物を書き、漢籍への豊富な知識を披露する一方、仏典に関しては殆ど言及が無いことから、日本の伝統文化についていささか考察した結果、次のような結論に達した。
日本では今に至るまで、仏典を読む時は、『棒読み』という日本語や漢字の原則を離れた特殊な手法が用いられ、書き下しもされず、文字情報を参列者に見せることもあまり無かったから、仏典の内容は日本人の間にあまり普及しなかった。
一方、『論語』『漢詩』等、仏典以外の漢籍は、書き下し文が主流だったから、けっこう日本人の間に定着した」
ここまで書いてきて、文章がいささか否定的だったので、終わりに、仏教関係者の端くれとして、現状への肯定的な打開策を提案いたします。
「門徒・参拝者等は、寺院や教団の法要に参加することももちろん良いことだが、それだけでなく、自分もお経の現代語訳本を持参して、読経の最中、または出発前や帰宅後にそれを見て、現状よりもう少し、内容を把握する。
寺院・僧侶の側も同様に、門徒・参拝者等にお経の現代語訳を読むよう勧める」
そうすれば、法話の内容も理解しやすくなるし、葬儀等の式典も、退屈から一転して充実した時間帯になるでしょう。
そして、それは、門徒・参拝者、寺院・僧侶双方にとって、有意義かつ快適なことだと考えます。
(現代語訳お経本の紹介については、いずれする予定です)。
『般若心経』の現代日本語訳や意味・内容については、
いずれ自分なりのものを発表せねばと思っておりますが、目下、考案中のため、今回は、ネットで見つけた中から、良いと思われる記事を紹介するにとどまらせていただきます。
般若心経翻訳 (koufukuji.yokohama)
『般若心経』を現代語訳するとこうなる - 存在が存在することの意味を説くお経 - - 禅の視点 - life - (zen-essay.com)
https://www.zen-essay.com/entry/hannyashingyou
(令和6=2024年2024年9月2日 第1回目掲載)
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第1回目掲載の時は、
「渋沢栄一 なぜ『論語と算盤』? なぜ『仏典と算盤』でなかった?
歌姫アニタ・ムイのソロ『般若心経』付き
お経は暗くてつまらないか? 仏教ポップスへのいざない6 」
という
題名・内容でしたが、
その後、考えるところがあって、今回、
「渋沢栄一」の部分と「アニタ・ムイ」の部分を分離しました。
(令和6=2024年10月15日)
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