ジャッキー・チェンが好きだ。そして、少林寺系の映画も好きだ。
つい先ほど、少林寺系の映画をCSで見た。
ぼくは「酔拳」とかのころから、ジャッキー・チェンが好きで、そこから少林寺系のドラマや映画にたどり着いた。
何がいいって、戦い方である。素手、椅子そしてそこら中にあるもので戦うというのがカッコいい。少林寺系も、素手または棒。敵も、剣くらいはもっているが、基本、素手。なぜか、素手。それで戦って、やられていくのである。
こうしたアジアアクションにハマると、いわゆるアメリカンアクションが嫌になってくる。常に銃。銃。銃。たまにナイフとかその他。
撃って相手に当たれば、そりゃあダメージ与えるわな。そりゃあ、相手は死ぬわな。そして主人公だけが、機関銃の雨あられでも、1つも当たらない。なんか、無粋だ。
そして、F●ck´nってばっかり言っている。下品だ。
アメリカンなアクション映画は、多くが「主人公生き残る」系だ。もっというと、「実は家族や仲間も無事だった」系でもある。
今日見た少林寺系は、ジャッキー・チェンもおじい的な役で出ていた。主人公は、もともと悪いことをした人とはいえ、少林寺に出家し、修行を積む。
敵が来る。素手じゃない。火器も持っている。
しかし、まず人々を逃がすのを優先し、ここで何人が、少林寺のお坊さんが銃で撃たれる。しかし、彼らは棒で立ち向かう。
銃に対して、棒だ。どれだけ強いのだ。
4人の仲間は、ここは通さないとか、いいところで戦って死んでいく。最後の一人は、師匠や村人を守って背中から撃たれて、死ぬ。みんな死ぬ。
あー、これはみんな死ぬ系かーと思いながら見ていたら、やっぱりそうだった。主人公も、師匠も死ぬ。さらに、文化を理解しない「西洋人」が、最後の大砲を少林寺にぶっ放す。正気か? 少林寺の文化的価値がわからないバカモノが! しかし、残った少林寺のお坊さんたちが、こいつらを棒でやっつけてくれたから、ちょっとすっきりしたけど。
でも、戦いってこういうものじゃないの? と思うのだ。
古くて悪いが「ダイハード」なんて、ここまでやって、主人公がなぜ軽傷? という感じだ。足や手の1本くらいなくなっていてもおかしくないのに、最後は笑顔で奥さんとハグ。都合よすぎ、
オレたち白人は最後には勝つのだ、というメッセージだったりして。胸糞悪い!
だからもう、長いこと、アメリカンなアクション映画は見ていない。
まあ、ジャッキー・チェンの映画も、基本、仲間を死なせないが、それだけのすごいことを、ジャッキーが体かけてやっているから、と点が甘くなる。そんなジャッキーも、アメリカ映画では銃を持つのだけど。
まあ、少林寺系の映画も、いつもこんなシリアスではない。
いろいろ書いてきたけど、今日ぼくは少林寺のお坊さんが、銃にも鉄砲にも大砲にも、棒ひとつで向かっていくのが、カッケー! と思っているだけなのかもしれないな。