格差社会での多様性、ピンクの眼鏡のYさんと競艇の食堂のおばさんの事
1.格差社会での多様性
自由と豊かさをもたらすはずの多様性という言葉、私はなぜか束縛と不自由さを日々感じる。多様性社会の前に格差社会が強くあり、その中での「多様性の要求」が、どこか息苦しくしているように感じる。
格差社会のピラミッド構造の中で、下の者は上へ登る事で、上の者は下へ落ちない事で精一杯。人と深く関わる余裕もない。
多様性という言葉で都合よく「人は人、自分は自分」と割り切る。
人をきちんと見て、想像力を働かせ、丁寧に接する事をしなくなる。
「多様性」という言葉が悪いわけではない。「多様性」は「多様性」を認める「自由」や「余裕」「豊かさ」のある社会あっての事。
今の社会のシステムは、逆に格差社会を拡大し、監視と選抜、排除と攻撃の傾向が日々強くなっている。
これは今だけの話ではない。格差社会は昔からあった。強いて言うなら、今よりセーフティネットがあり、不安定な雇用が少なかった時代。
松田聖子が「春色の汽車に乗って♪」と「赤いスイートピー」を、
中森明菜が「私は私よ、関係ないわー♪」と「少女A」を歌っていた1980年代の話。
2.ピンクの眼鏡のYさんと競艇の食堂のおばさんの事
お茶の水女子大学に入学したYさんが、心臓発作で亡くなったのは私が大学2年の時だった。それから半年が過ぎ、田舎で高校の友人と飲んでいる時、彼女が自殺だった事を知った。初めて聞いたのに、私は最初から知っていたかのように少しも驚かなかった。
彼女は度の厚いピンクの眼鏡をして、哀しいほどやせていた。話しかけても愛想が悪く、視線も合わせなかった。私の高校は田舎の進学校で、私と彼女は文系のトップクラスにいた。
しかし私と彼女の成績には雲泥の差があった。彼女は毎日家で8時間以上勉強し学年のトップ。成績を争っていたM君は、現役で東大に入学した。
彼女はそんな誰もが一目置く成績と存在だった。
なのに誰とも口を利かず、女の子同士の友達もいなかったように思う。
彼女と私は、同じ掃除の班だった。放課後、男子三人と女子三人でいろいろな場所を掃除した。
男子と女子の間には距離があり、女子と女子の間にも距離があった。彼女は誰も寄せ付けず、教室の後ろでポツンと一人箒を持って突っ立っていた。
大学生になって彼女が亡くなった事を聞いた時、私は競艇場で中継のアルバイトをしていて、なぜかよく行く食堂のおばさんの事を思い出した。
Yさんと同じように痩せていたおばさん。雰囲気がYさんに似ていた。
そのおばさんは店の奥の調理場にいて、めったに表に出てこなかった。
私はそのお店の豚汁が好きで、朝も食べに行くようになると、人手が足りないのか、おばさんは調理場だけでなく配膳の仕事も行い、崩れた豆腐を冷ややっこにしてサービスしてくれた。
おばさんはほとんど口をきかなかった。おばさんの前髪に隠れた奥に青黒い瘤があった。ルッキズムで就職差別を受けていた人が多く勤めていた気がする。私はここで初めてそういった人たちと出会った。出会ったが、交流はできなかった。
おばさんは冷ややっこだけでなく、無言でいろいろサービスしてくれた。
それなのに、私はいつもおばさんの顔を見ないで、下をむいたまま「すみません」と言って頭を下げるだけだった。
このエッセイは、私自身の恥と後悔の物語。
私はYさんのずば抜けた成績と人を拒否する態度だけを見ていた。
私は食堂のおばさんの瘤だけを一瞬みて、顔を見ないことにした。
おばさんの好意を、視線をはずしたまま「すみません」となぜか謝った。
今ならそれがどんなに彼女に失礼だったかがわかる。
そんな浅はかな私に、おばさんはいつもサービスしてくれた。
Yさんの事を書こうと思い、私は高校の頃の卒業アルバムを取り出して、
Yさんの姿を探した。クラスやクラブ写真、スポーツイベント、キャンプ、文化祭、遠足、研修旅行…、彼女の姿はどこにもなかった。ぞっとした。
数日後、Yさんが卒業アルバムにいない理由を思い出した。
Yさんは高2の夏、過労で倒れ、入院したまま出席日数が足りず、そのまま落第してしまった。私は、それから二度と彼女に会う事はなかった。
若い頃、私の人を見る目は驚くほど浅く、他者を受け入れる器は小さかった。今なら食堂のおばさんや、Yさんがどれほど孤独だったか、少しは理解できる。
もしタイムトラベルが可能なら、Yさんと話したい。それが無理ならせめて笑顔で挨拶したい。誰も価値を感じていなかった掃除の時間を、友人と二人で道化になって、ほっとできる時間に変えたい。
競艇場の食堂のおばさんにも、毎日、きちんと目を見て「ありがとうございます」と感謝の言葉を伝えたい。
松田聖子の「赤いスイートピー」を聞くとなぜかYさんの事を思い出す。
彼女がピンクのフレームの眼鏡をしていたからなのか?
彼女の自殺を知ったのが3月だったからなのか?
ロマンチックな連想ではない。若い頃、私は鬱な気分になると松田聖子や山下達郎を聞いた。届かない世界を想像した。
田舎の駅のホームは桜並木が多い。私の家のある駅も一つ先の駅も桜並木があり、その先は青い海だ。
もう一度過去に戻る事が出来たなら、春休み、春色の汽車に乗って、掃除グループで海に遊びに行きたかった。
所詮、叶うはずのない夢物語だけど。
だから、せめて残りの人生は後悔しないよう、人と丁寧に向き合い、想像力と思いやりを持って人と接したいと思う。