矛盾の芸術:宮沢賢治と宮崎駿に学ぶ「今を生きる姿勢」
1.宮沢賢治:災害と社会の矛盾の中で成長
宮沢賢治と宮崎駿が子供の頃生きた時代と震災や津波、異常気象、パンデミック、戦争が続く今の時代とが重なるように思える。
昔から親しんできた二人の作品が、今になってリアルに感じ、現代と照らし合わせて今一度、彼らの表現の背景を考えたみた。
宮沢賢治の生きた時代は、冷害による凶作、日露戦争、第一次世界大戦、関東大震災の、明治から大正1933(昭和8)年までの時代。
宮沢賢治は、1896(明治29)年、三陸大津波、陸羽大地震、赤痢、チフスが大流行した8月27日に、宮沢政次郎・イチの長男として生まれた。
父方の祖父・喜助は質・古着商「宮澤商会」を開業し、父政次郎はそれを受け継いだ。
母方の祖父・義治は花巻の豪商、花巻銀行、花巻温泉、岩手軽便鉄道の設立に尽力。40年以上町会議員を務めた有力者。
賢治は裕福な恵まれた家庭に生まれ、岩手県をドリームランド「イーハトーブ」という理想郷として詩や童話で表現した。しかしそれは想像上の理想郷、心象スケッチとしての岩手県。
賢治は22歳の時、妹トシの看病のために東京に行き、友人に「花巻は汚い、私の家も汚い」と手紙に書いていた。
当時岩手県の92%が農村、残りの8%が役人と商人。相次ぐ地震、津波、冷害、その度に農村の収穫は奪われる。農民は生きるために、小作権や土地を担保に借金を重ね、結局返す事が出来ず、土地や財産が奪われる。
貧しい農民は、ますます困窮し、地主などの富裕層が富を得る不条理な社会構造があった。
賢治は、この不条理な社会構造に怒りを感じつつも、その構造のトップに宮澤一族があり、自身がその質・古着商を営む家の長男である事への矛盾と葛藤を抱え込む。
2.宮崎駿:戦争と社会の矛盾の中で成長
一方、宮崎駿は、1941(昭和16)年1月5日、太平洋戦争勃発の年に、戦闘機の部品などを作る宮崎航空機製作所の役員を務める宮崎勝次・美子の次男として生まれる。
宮崎駿は、幼児期に空襲体験を持ち、空襲から逃れるために宇都宮に疎開し小学3年までそこで過ごした。
戦争中に子供時代を過ごした自らを『祝福されないやばい時代に生まれた子供』という。
しかし戦争中、物資が不足し困窮する一般の家庭とは違い、宮崎駿の家庭は軍需産業で潤う裕福な家庭だった。
この後、いい加減な商品とは、特攻隊の飛行機の翼の先っぽを未熟練工が作り、機関銃に穴が開いていなかったり、一番性能の悪い新品のエンジンが使用されていた事が明かされる。
3.宮沢賢治:妹トシと農民の救済
災害と病気の中で、宮沢賢治はこの不条理な社会を少しでも変えたいと、家業を継がないで、1年浪人して農業を学ぶために、盛岡農林高等学校(現・岩手大学農学部)に進む。
同じ年、17歳の妹トシが地元でスキャンダルに巻き込まれる。トシと高校の音楽教師との恋愛が岩手新報に、三日連続で掲載される。
音楽教師との三角関係を新聞は興味本位に記事にして、世間の人々は、ここぞとばかり誹謗中傷し、宮沢家を貶める。
新聞記事になるほど宮沢家が有名で、地元の名士であり、その子供の恋愛がタレントかスターのようにメディアに騒がれる。この出来事も全く普通の庶民がSNSで晒され炎上する現代とつながる。
妹トシは、郷里から逃れるように東京の日本女子大学に入学。賢治は、大正七年、トシが肺浸潤で入院すると、母と共に東京へ看病に行く。
やがて病の中トシは賢治と同じ「この世を仏陀の世界にする」日蓮宗の信仰を持つようになる。
賢治は大正十年父との対立から東京に家出し、日蓮宗に入信し、原稿用紙三千枚にも及ぶ創作童話を書き続ける。
この創作と行動力の性急さの影に「トシの存在」そしてトシの傷ついた心を自分の童話で救う、そんな思いがあったように思う。
その証拠に賢治は、トシを失ってからの「永訣の朝」「春と修羅」「銀河鉄道の夜」の深みは普遍的で切ない。
トシの死後、宮沢賢治は、トシが病で退いた教職の仕事を追うように教職の仕事につくが、30歳で花巻農学校教師依願退職。
賢治自身が農民の一人となって「農民を救済」し「ほんとうの幸い」をつかむために、荒れ地を開墾して白菜、トウモロコシ、トマトを育て、土壌学や植物生理科学を学び、肥料設計、花壇設計を行う。
農民こそ芸術に触れ、精神的に豊かに生きるべきだとレコード鑑賞や楽器の演奏、子供会などの劇や芝居の催しをする羅須地人協会を作る。
4.宮崎駿:呪われた子供と女性の救済
宮崎駿も、自らの戦争体験とそこでの社会の矛盾の中での葛藤を抱え続け、それを表現のテーマにする。
1945(昭和20)年、4歳になった宮崎駿が宇都宮大空襲の時、人々が走って逃げる中、助けを求める人を見捨て、家族で小さなトラックに乗って逃げたエピソードを講演で語っている。
宮崎駿自身、「カリオストロ」「ナウシカ」「ラピュタ」「トトロ」と自分の作りたいと思っていた作品を作り終え、その後、自身の深いテーマと向き合う個人的な作品作りとして「紅の豚」を企画する。
第二次世界大戦前のイタリアの赤い飛行艇に乗った主人公ポルコ・ロッソ(赤豚野郎)は、呪われて豚になっている。
この呪われた豚こそ、矛盾と葛藤を抱え、罪悪感と共に生きる宮崎駿の本質に関わるキャラクターのように思える。「紅の豚」を作る時の心境の変化を宮崎駿は次のように語っている。
30年以上前のインタビューだが、今読み返すと、ヒステリックな管理社会とその社会崩壊は、現代にあてはまる。
「簡単な民族主義や安直なニヒリズムの刹那主義もうんざりだ」という言葉は、今こそ説得力を持つ。
この呪われた子供だった宮崎駿自身を反映するキャラクターが同じ子供や女性たちを救うというテーマは「もののけ姫」以降、明確になる。
それにつれて、今までのハリウッド的三幕構成の映画作りは終わり、物語は複雑な生命体のように増殖し、変化し、どこへ向かうのかわからなくなる。簡単にテーマに沿って紹介してみる。
「もののけ姫」(97)では、大和の王朝との戦いに敗れた蝦夷の末裔で、呪われた少年・アシタカが人間から生贄として犬神に捧げられたサン(もののけ姫)と身売りされた過去を持つエボシ御前の間に立ち、二人を救い、共に生きる道を模索する物語。
「千と千尋の神隠し」(2001)では、小川の神であるハクが、人間に支配され、白竜に化身する。そんなハクが名前を奪われ、湯婆婆に支配される千尋を救う。そして千尋が、豚になった両親と傷ついたハクを救う物語。
「風立ちぬ」(2013)は、飛行機に魅せられ「美しい夢」であり「呪われた夢」である戦闘機ゼロ戦の設計をする堀越二郎が、関東大震災の中、奈緒子と女中絹を救う。奈緒子の結核、戦争という不条理と堀越二郎の飛行の夢と戦争の悪夢が重なり、救いのない現実が押し寄せる物語。
「君たちはどう生きるか」は、太平洋戦争中、母の死から田舎に疎開し、アオサギに導かれ、下の世界で関東大震災の火の中で亡くなった母・ヒミを蘇らせ、母と自らの心の傷の救済の物語。宮崎駿の心の奥の傷を、さらに深く複雑に繊細に描いた作品。
5.宮沢賢治と宮崎駿、二つの世界の共鳴
宮沢賢治と宮崎駿が生きた時代、災害や戦争で格差社会の矛盾が露わになり、その葛藤の中で弱者が切り捨てられる。そんな社会の変革を強く願い、希望と夢を捨てずに、自らも傷つきボロボロになりながら表現を追求する。
宮沢賢治の「農民芸術論」の「新たな時代は世界が一つの意識になり生物となる方向にある。正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じていくことである」という言葉は、世界を一つの生命体として捉え、個人個人は一つの細胞だという。もし一つの細胞が傷ついたら、他の細胞もその痛みを共有し、生命体全体で健康になり、幸福をつかむこと。
それは宮崎駿の言う「団子になってグショグショになって、世界中がスラム街になりながら、生きていくしかない」という言葉に通じる。
自らも他者もお互いの傷を癒し、自然やあらゆる生命体と地球との共存を考えながら生きる事。
今こそ宮沢賢治と宮崎駿の表現のテーマがしっくりと理解でき、自分の「今を生きる姿勢」として重要になってきているように思う。