「幽霊じゃなくて、魂…」と曾祖母(99歳)の呼びかけ(お盆の話)
先祖の霊(魂)が戻って来るというお盆が来るたびに思い出す。
99歳で亡くなった曾祖母(そうそぼ)の事。私は、彼女から花札のやり方を教えてもらった。
特に、1月 の松に鶴、2月の 梅にうぐいす、4月の藤にホトトギス、7月の 萩に猪、8月の芒(すすき)に月、10月 の紅葉に鹿、11月の柳に小野道風の絵札が好きだった。
曾祖母と住むようになったのは私が小学生の頃で、90歳を過ぎていた。
耳も遠く、足も覚束なかったので、部屋に籠っている事が多かった。
私は時々、曾祖母の部屋で、花札やはさみ将棋をしたり、布切れでお手玉を作ったりした。その部屋は古いタンスの匂いがした。
彼女は気分が良いと一人で散歩にでかけた。たまに山城屋という駄菓子屋で、蛍光塗料の骸骨や木の梯子を上り下りする火消しのからくり玩具を買ってきては、私を喜ばせた。
やがて曾祖母の顔のシミが濃くなり、おならが「ぶぅ、ぶぅ」と自然に出るようになると、小学生の私は無神経に「ぶぅ婆」と呼んだ。
すると彼女は、顔をきっと引き締め、叱るような目で私を見た。
曾祖母の口癖は「畜生」だった。悔しい時、腹が立つとき小さく「畜生」と呟いた。花札やはさみ将棋でも負けると「畜生」と呟いた。嫌な感じではなかった。自分の内側に向かってただ言い聞かせるように「畜生」と言って、笑顔になった。
曾祖母は、歴史ある温泉街(平安時代の「八古湯」のひとつ)の明治、大正、昭和と続く大きな蔵のある町家を切り盛りした人で「気の強い美しい女性だった」と、葬式の時、親戚の小父さんから聞いた。
そんな曾祖母が死の二週間前から、真夜中に一人事を言うようになった。まるで、闇に向かって誰かと喋っていた…。
それは三日三晩続いた。
私は、夜、トイレに行くとき曾祖母の部屋の横を通り、話声が聞こえると、正直、気味が悪く、怖かった。
私「幽霊と話してる?」と聞くと
母「幽霊じゃなくて、魂…。あれは亡くなった3人の娘さんと話してる」と教えてくれた。
曾祖母には、上に3人の娘、下に2人の息子(弟が私の祖父)がいた。
夫は年若く病気で亡くなり、町家の商売で5人の子供を育て、17歳、19歳、22歳の娘さんを立て続けに亡くしている。
私の祖父は、宮沢賢治の妹トシさんと同じ1898年生まれ、すると曾祖母の娘さんと息子は、宮沢賢治(1896年生まれ)と同じ世代。
トシさんも患った結核で毎年10数万人の人が亡くなったり、人類史上最悪のパンデミックのスペイン風邪で日本でも39万人の人が亡くなった時代。
残った2人の息子も、長男は駆け落ち同然で家を出て、次男(私の祖父)と大きな町家に住んでいたが、
1934年(昭和9年)の温泉街の8割を焼失する大火で全てを失った。
左官屋の棟梁であった祖父は、家族を連れ、満蒙開拓移民として満州に行き、曾祖母はたった一人で町に残っていたらしい。
彼女は、どんなに長生きしても信仰を持つ事はなかった。曾祖母の部屋には仏壇があったが、私が記憶する限り曾祖母が手を合わす事はなかった。
もちろんお墓参りもしなかった。
曾祖母は3人の娘と話し終えた次の日から「山崎幸四郎さーん」と何度も呟くようになった。その呼びかけは、昼となく夜となく続いた。
私は勝手に曾祖母は、夫の名前を呼び続けているのだと思い込んでいた。
しかし後年、母の話から彼女の父親の名前だと知った。
彼女が、最後まで夫に助けを求めなかった理由は、何一つわからない。
曾祖母は、一度も夫の名前を呼ぶ事なく、眠るように逝った。
若い頃から、愛する人を悉く奪われ、大火から生き延び、戦火から逃れ、99年間、いかなる信仰もなしで生き抜いた。
曾祖母はきっと理不尽な出来事に出会う度に、自分を奮い立たすために「畜生、畜生、畜生…」と呟いていたに違いない。
「畜生…」と言いながら、自分の夫や3人の娘に代わって、彼女は99年生き続けた。そして最後の最後に自分の実家に帰って行った。
父である「山崎幸四郎さーん」への呼びかけの声は、心細い少女のような声だった。
私は霊の事はわからないが、曾祖母は、あの日、確かに3人の娘たちと夜の闇の中で語りあった。そして何度も何度も呼びかけ、ついに父と共に逝ってしまった。
特別な信仰を持たなかった曾祖母の話で、お盆には不適切ではあるが、
人間本来の心の中にある「幽霊じゃなくて、魂」の話として私はずっと信じ、大切にしている。