読書記録2024/12/20
今年も残すところあと十一日となった。
今年の一月一日から読んだ本は、三十七冊。
本当の目標は六十冊だったが、十月辺りに下方修正したうえで四十冊の目標を自分の中で立てていた。何とかギリギリ達成しそうで、この勢いが保てれば、来年こそは六十冊が達成できる計算になる。
死ぬ前に、読まなければいけない本を読むんだ。
五月の方の文学フリマで購入した「シネマフィリア」、その中で出てきたユセフ・イシャグプール の『ル・シネマ』を、この頃に読んだ。
影響するところが大きかった。とはいえ、まだここに出てきた歴史的映画を見ることはできていない。「裁かるるジャンヌ」、途中までサブスクで見たのだが止まっている。本から一度離れてしまうと、自然と情熱もおさまってしまう。
それから、ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」。ここで学んだ、要はアメリカを構成している、周りを巻き込んだ「自由主義」の闇の部分についての幾つかの用語は、「民主主義は、いま?」にも出てきた。世界各地の革命と言われるものが、どのような内実を持っていたのか、等々……
本日、もともとはアラン・バディウの何かしらの著書を読んでおこうというそれだけの動機から読み始めた、この「民主主義は、いま?」という、現在の代表的な思想家の、民主主義に対する意見(二〇一〇年台くらい)を載せた本を読み終えた。
これは最後のジジェクの章の、さらに最後の方。
つまり、市民にとって最適な政治を構成するのに、民主主義をうまく機能させること、だけでは足りないということ。悪政があるのは「民主主義がここでは封じられている」から、その民主主義を再びもたらそう、というだけでは足りないということだ。しかも、それは民主主義の本質にまつわる問題だから、民主主義ではない要素を持ち込まなければいけないということにもなる。
民主主義とは、生まれてこのかた、定義されたことがない、ということは、ジジェクだけではなく、ここに載っている多くの思想家の意見が一致している。民主主義的である、つまり正統であるとか公平であるというスタンスを取る為、あらゆる陣営がこの「民主主義」という言葉を便利に使う、中身をたまねぎの皮でも向くようにどんどん求めていったら、中身は空だった、という感触の残る書き方をしている人もまた多くいた。
では、どうすればいいのか。それこそ「パレスティナ」の命運もかかっている、非常に難しい問題だ。