夏の夜ももうすぐそこまで、と。
もう、建て直してからしばらくして貫禄の出てきた家屋の扉をひく。がらがらざらざらと、手の指先4箇所をふるわせる整った長方形をした木枠。茶道のお稽古が終わり、ホッと先生の家を出たなりのことだった。
じーーーっ。
びーーーっ。
耳慣れない——というよりはむしろ、久しぶりに鼓膜を震わせるような波。扉を開けて、少しなまあたたかい香りが鼻を掠めるような心地、それと同時にきこえる振動。もちろん、虫の声ではないかというのは心のうちでわかっているのだが、それで納得のできないつっかえを感じる。どこかで聞いたことのあるような、何の音であっただろうか、と記憶を巡ってあちらこちらと棚を開けては閉めてを繰り返して過去を辿る。
ちょうど先生のお宅を10歩ほど離れたところでようやくあたりの棚に手をかけた。
ネズミ避けの音。そう、ルクセンブルクで聞いたそれだった。
もう何年まえになるだろうか。ヨーロッパへ留学していた頃の貧乏旅行で、見知らぬ人の家にお邪魔して泊まるというのがこれまた楽しくてならない、というような時期があった——なかなかの図々しさである。その時にルクセンブルクという小さな小さな国にお邪魔をして、煉瓦造りの1軒屋で一夜を過ごしたことがあった(本当ならば2泊する予定だったのだけれど)。
とても気前の良い人で夕食を共にして、私はリビングの使い込まれた柔らかい灰色のソファで横になった。灯りを消して真っ暗な静けさ、そういう頃には耳がよくきこえるようになる。ぐっすりと眠ろうとした矢先のこと、サササ。サササ。きこえる足音のようだけども、あまり信じたくはない。が、確実に小さくてすばしっこくてチーズが好きと定評のあるハムスター似のそれだと確信できた。
どうも慣れない足音が怖くて家主にお願いしたら出てきたのがネズミ避け。これを置いておけば大丈夫だから、と家主は私とそのネズミ避けたるものをのこして寝室へ去っていた。そのネズミ避けから発される波、それがまさに、
じーーーっ。
びーーーっ。
こういった音であったのが思い出された。とはいえ、無論ネズミ避けではなく、5月の終わりに近づききこえるのだから、夏の夜にでも鳴くような虫ではなかろうかと。
「今の時期 虫の声」
家に戻ってから部屋の中におさまった後で、パソコンの画面へ打ち込む。でてきたのは、「〜スズ」と呼ばれる類のものであった。ヒメスズ、ハマスズ、ヤチスズ、など。生息地によって名前が変わるのだろうか。
あまり詳しくわからないのだけれど、6月に聞こえてくるはずの声がこうも盛んにきこえるのはやはり、もうすでに夏の夜の支度がはじまっているのだなと感覚する。
もうすぐそこまで、と——。
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