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「珈琲店より」 高村光太郎 を読んで。(青空文庫コラム)

(あらすじ)

「僕」は、フランスでの生活を満喫している。フランス語にひたり、フランスの女にひたり、オペラにひたり。
そして……一人の女と寝たあさ、鏡に映る東洋人を見て、「やはりJAPONAISだ。MONGOLだ」と絶望をする。

(感想)

江戸時代に黒船でペリーが来たころ、日本のお風呂は混浴でした。特に肌も隠さずに、です。でも、欧米人たちは、それを、けしからんと軽蔑したそうです。彼らの国では、裸を異性に見せることは控えるべきことだったから。(美術の窓2024年10月号「近代化における日本人の裸体感の変容」 中野明 を参考)。

日本は外国と接して、自分たちの良さを見失ったとよく言われてますよね。当時の日本の混浴も、男とか女とかを変に意識しないし、問題も(おそらくめったに)起きない男女平等的な文化のように感じます。(そうならばトランスジェンダーのトイレの問題もなかったかも)。

人間、高い位置にいたい。「高い文化」をつくった白人でないことに、物語の「僕」は絶望をしてしまう。多分その憤怒は、作者の高村光太郎の持ったものでしょう。

そういう、恥、を作品に昇華したことが作家としての力の一つなんだなと思います。この、恥、は白人でない恥でなく、白人でないことを恥ることの恥、なのだと思います。同時に理性ではそれがわかっておきながらも、感情をとうてい平静に保てないアンビバレンスがあったのだと思います。

だから、この作品を書く意味があったのだと思う。もちろん、読んで何を思うかは、読者次第ではありますが。

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