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写真に言葉は必要ですか?

たとえば、大和田良さんの"Wine Collection"や杉本博司さんの"Theaters"、ソフィ・カルの"Les Aveugles"のように、コンセプトの説明や言葉なしでは成り立たない写真作品も多くあります。

では、そうではないもの、「必ずしも言葉を必要としない写真」をだれかに見せようとするとき、言葉はあったほうがいいでしょうか?


「表現」に触れるためには準備が必要です。

ある一枚の写真に対して、あるいは、たまたま通りかかったギャラリーの写真展を見て「さあ、何かを感じてください」と言われても、そんなことすぐにはできません。無理して言葉にしようとしても「プリントのトーンがきれい」とか「写真の構成が絶妙」など、表現の本質とは関係のないことばかりになってしまいます。

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「表現」に触れるためには感覚が励起状態になる必要があります。

それは、「作品の世界」に取り込まれるような、地面から浮かび上がるような状態です。作品の力によって見る人を「作品の世界」に引き上げられる場合もありますが、多くの場合、それだけでは足りません。見る人が自らジャンプしないといけないのです。

でも、いきなり飛び上がるなんて無理です。

助走が必要です。

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「言葉」は写真を見る人の助走のためにあります。
写真に集中させ、飛び上がるための方向を示し、背中を押すのが言葉です。


「いい写真を撮る人はいい言葉を綴る」と言われます。それは確かにその通りなんだろうなと思います。「表現」の土台は「思想」ですし、「思想」は「言葉」によって形成されるからです。


写真に言葉は必要ですか?

「言葉」は不特定多数の人に作品を見てもらおうとする時、見る人を引き込むために効果的です。

ただし、写真を台無しにしてしまう言葉、自由を奪ってしまうだけの「ない方がマシ」な言葉もあります。

言葉を添えようとする理由が「自分が言いたいことがあるから」だけならその言葉は必要ありません。でも、「その言葉によって見る人の背中を押すことができる」と思えるなら、短いタイトルでも長い物語でも、言葉を添えるのがいい(見る立場から言えば添えて欲しい)と思います。

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写真も音楽も文章も(学会でのプレゼンも)、自分以外の「だれか」に何かを伝えようとするなら、その表現は自分のためではなく、受け取り手である「だれか」のためにある。できるだけそう考えるようにしています。


ところで、大和田良さんの"Wine Collection"や杉本博司さんの"Theaters"、ソフィ・カルの"Les Aveugles"の中の写真たちにとって、本当に言葉は必要不可欠でしょうか?


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kimura noriaki
「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。

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