写真に言葉は必要ですか?
「表現」に触れるためには準備が必要です。
ある一枚の写真に対して、あるいは、たまたま通りかかったギャラリーの写真展を見て「さあ、何かを感じてください」と言われても、そんなことすぐにはできません。無理して言葉にしようとしても「プリントのトーンがきれい」とか「写真の構成が絶妙」など、表現の本質とは関係のないことばかりになってしまいます。
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「表現」に触れるためには感覚が励起状態になる必要があります。
それは、「作品の世界」に取り込まれるような、地面から浮かび上がるような状態です。作品の力によって見る人を「作品の世界」に引き上げられる場合もありますが、多くの場合、それだけでは足りません。見る人が自らジャンプしないといけないのです。
でも、いきなり飛び上がるなんて無理です。
助走が必要です。
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「言葉」は写真を見る人の助走のためにあります。
写真に集中させ、飛び上がるための方向を示し、背中を押すのが言葉です。
写真に言葉は必要ですか?
「言葉」は不特定多数の人に作品を見てもらおうとする時、見る人を引き込むために効果的です。
ただし、写真を台無しにしてしまう言葉、自由を奪ってしまうだけの「ない方がマシ」な言葉もあります。
言葉を添えようとする理由が「自分が言いたいことがあるから」だけならその言葉は必要ありません。でも、「その言葉によって見る人の背中を押すことができる」と思えるなら、短いタイトルでも長い物語でも、言葉を添えるのがいい(見る立場から言えば添えて欲しい)と思います。
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写真も音楽も文章も(学会でのプレゼンも)、自分以外の「だれか」に何かを伝えようとするなら、その表現は自分のためではなく、受け取り手である「だれか」のためにある。できるだけそう考えるようにしています。
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「科学」と「写真」を中心にいろんなことを考えています。