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歎異抄の旅(15)名作『方丈記』の誕生秘話!自殺を考えるほど苦しんでいた鴨長明を救ったもの

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず……」
 名文ですね。鎌倉時代の随筆『方丈記(ほうじょうき)』の書き出しです。
 著者の鴨長明(かものちょうめい)は、一丈四方(いちじょうしほう・約五畳半)の粗末な庵(いおり)に住み、自然の中で悠々自適に暮らした文化人として知られています。現代でも、
「煩(わずら)わしい人間関係を離れて、自然の中で暮らしたいなあ」
と、長明にあこがれる人が多いようです。
『方丈記』の著者、鴨長明の足跡を訪ねてみましょう。
 こう言うと、
「このコーナーは『歎異抄(たんにしょう)の旅』ですよ。鴨長明と、どんな関係があるんですか?」
という声が聞こえてきそうです。
 はい、取材を進めると、実に深い関係があることが分かってきました。
 鴨長明と親鸞聖人(しんらんしょうにん)の関係。そして、長明が『方丈記』を書いた目的は何だったのか。順次、解明していきましょう。

鴨長明は、なぜ、
 山の中に、方丈庵を建てたのか

 自分の「死」を見つめると、
「この世が終わったら、どこへ旅立つのだろう」
「死後(後生・ごしょう)は、あるのか、ないのか」
など、次々と疑問がわいてきます。
 このような、「死んだらどうなるか分からない心」を、仏教では「後生暗い心」といいます。
「後生暗い心」を解決して、この世から永遠の幸福になることが仏教の目的なのです。
 親鸞聖人が9歳で出家を決意し、天台宗(てんだいしゅう)の僧となり、比叡山(ひえいざん)で厳しい修行に打ち込まれたのも、まさにこの目的、一つのためでした。

比叡山から琵琶湖を望む

 しかし、親鸞聖人は、天台宗では救われなかったのです。29歳の時に、比叡山を下りて、浄土仏教(じょうどぶっきょう)を説かれる法然上人(ほうねんしょうにん)のお弟子になられたのでした。
 阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願(ほんがん)によって、ハッキリ救(すく)い摂(と)られた親鸞聖人の活躍は、法然門下の中でも傑出(けっしゅつ)していました。仏教界を大改革するために断行した肉食妻帯(にくじきさいたい)には、
「僧侶(そうりょ)が結婚するとは、仏教界の伝統を破壊(はかい)する行為だ。堕落僧(だらくそう)だ!」
と、激しい非難が巻き起こりました。

親鸞聖人は公然と肉食妻帯を断行された(アニメ「世界の光・親鸞聖人」より

 また同時に、都の人々に、
「親鸞殿は、浄土仏教の救いには、男も女も、老いも若きも、僧侶も俗人も、善人も悪人も、一切差別はないと言っているが、本当だろうか」
と強烈なインパクトを与え、法然上人のご法話に参詣(さんけい)する人々が急増していったのです。
 その中に、50歳頃の、やせ衰えた一人の男性がいました。人生に挫折(ざせつ)し、悲嘆(ひたん)に暮れていることが表情からも分かります。この男性こそ、後に『方丈記』を書く鴨長明だったのです。
 一度は自殺さえ考えた長明は、仏教を聞くことによって、みるみる生きる力を取り戻していきました。
「法然上人の元で、もっと仏教を聞かせていただきたい」
 そう願う長明の夢は、わずか数年後に、国家権力の弾圧によって打ち砕かれてしまいます。後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)が念仏禁止令(ねんぶつきんしれい)を出し、法然上人の吉水草庵(よしみずそうあん)を閉鎖(へいさ)してしまったのでした。
 法然上人は土佐(とさ)へ流刑(るけい)。
 親鸞聖人は越後(えちご)へ流刑。
 その他、多くの法然門下(ほうねんもんか)の人たちが死刑、流刑に処せられたのです。
 激しい弾圧の嵐が吹き荒れる中、鴨長明は、法然上人の弟子・日野(ひの・藤原)長親(ながちか)に守られるようにして都の東南にあたる山の中へ移り住みました。
 わずか一丈四方の住まい「方丈庵」を建て、ひっそりと暮らすようになったのです。その場所は、現在の京都市伏見区(ふしみく)日野であり、「方丈(ほうじょう)の庵跡(あんあと)」と、京都市観光協会の名所・旧跡案内にも記されています。長明が暮らしていた跡地が、今も残っているのです。

『方丈記』は、いつ、どこで、
     何のために書いたのか

 京都駅でレンタカーを借りて、鴨長明の方丈庵跡へ向かいましょう。
 まず、日野にある親鸞聖人ゆかりの法界寺(ほうかいじ)を目指して車を走らせます。寺の前には、「親鸞聖人御生家(ごせいか)」「日野家菩提寺(ひのけぼだいじ)」と掲げられていました。

法界寺の前には「親鸞聖人御生家」と掲げられている

 日本の政界で一大勢力を誇った藤原氏には、多くの支流があります。その中でも、日野に法界寺を建立した藤原氏の一流は、「日野」を姓として名乗ることもありました。親鸞聖人は、日野(藤原)有範(ありのり)の長男としてお生まれになった方です。
 鴨長明が、弾圧の嵐から身を避けるために、日野家に守られて、法界寺の近くの山に移り住んだことに、親鸞聖人との深い因縁(いんねん)を感じずにおれません。

 法界寺のすぐ近くまで来ると、
「鴨長明方丈石(ほうじょうせき) 是(これ)より約1000M」
という標識が現れます。

カーブミラーの下に「鴨長明方丈石 是より約1000M」の標識。正面に見える山に方丈庵があった

 ここで、「方丈石」という言葉が出てきました。
 なぜ、「石」なのでしょうか。
 戦国武将の細川幽斎(ほそかわゆうさい)は『方丈記』の愛読者でした。鴨長明の草庵跡(そうあんあと)を訪ねて、次のように書き残しています。
「そこには、大きな石がある。石の上で耳を澄(す)ますと、清らかな水が流れる音が聞こえてくる。その響きは、まるで、琴(こと)の調べのようだ。ここに立って初めて、長明の心の奥底(おくそこ)を感じることができた」
 とても静かな山の中に方丈庵が建っていたことがわかります。しかし、「大きな石」とは、一体、何を表しているのでしょうか。

「是より約500M」の標識

 標識に従ってさらに車を走らせると、方丈石の手前300メートル辺りで道路が行き止まりになっていました。

方丈石の手前約300メートルで、道路は行き止まり

 車を降りて、山の上へ向かう細い道を歩きます。林の入り口には、次のような立て札がありました。
「ここの杖(つえ) ご自由にお使い下さい
         日野老友会(ひのろうゆうかい)」
 今も訪ねる人が多いのでしょう。親切に、杖が何本も置かれているではありませんか。
 ここからの坂道は、背の高い樹木のトンネルの中を進んでいくようでした。とても静かです。聞こえてくるのは、チロチロと湧き出る水の音と、カサカサと木々を揺らす風の音だけです。さし込む日の光も優しく感じました。
「800年前も、こんな風景だったに違いない。この道を、鴨長明も歩いたのだろうなあ……」

車を降りて山の中へ入ると、そこはまるで樹木のトンネルのようだった
石に刻まれた道案内
静かな山の中を、さらに奥へ進む

 落ち葉を踏みしめて坂道を上っていくと、突然、目の前に、巨大な石が現れたのです。薄緑色の塊(かたまり)です。人の背丈の倍以上の高さがあります。
 山の斜面から、唐突に突き出ているので、宇宙から飛来した隕石(いんせき)じゃないかと思ったくらいです。

突然現れた、巨大な石の塊(方丈石)

 石の上へ登ってみました。舞台のように平たくなっています。
 そばに、「長明方丈石」と刻まれた石碑がありました。江戸時代に建てられたものです。その隣には、由来を記した石碑もありました。

江戸時代に建てられた石碑(右)

 山から突き出たこの巨大な石を「方丈石」と呼ぶそうです。
 鴨長明は、この石の上に方丈庵を建てて、暮らしていたのでした。
 方丈庵が、こんな山奥に建っていたとは思いませんでした。

 鴨長明が山へ身を隠してから3年後、法然上人が流罪の地から京都へ戻られました。刑が解かれたといっても、都では、いまだに念仏禁止令が何度も出されています。比叡山や奈良の伝統仏教勢力からの迫害が続いていたのです。
 そんな中でも、法然上人は、阿弥陀仏の本願を説かれていました。命懸けのご説法だったと思います。
 鴨長明は、方丈庵から都へ通い、法然上人のご法話(ほうわ)に参詣(さんけい)していたはずです。
「今度こそ、真剣に仏法を聞かせていただこう!」と誓って。
 ところが、それから1年もたたないうちに、法然上人は、病でお亡くなりになったのでした。 
「法然上人こそ、私の生涯の師匠だ」と思い定めていた長明にとって、どれだけ大きな衝撃(しょうげき)だったかしれません。
 この悲しみの中から、自らの生涯を振り返って一気に書き上げたのが『方丈記』なのです。それは、恩師の死から、2カ月後、長明58歳の時のことでした。
 ここで、『方丈記』の最後の行に注目しましょう。長明は、
「出家(しゅっけ)の蓮胤(れんいん)、日野の外山(とやま)の庵(いおり)においてこの文を記します」
と結んでいます。
「蓮胤」とは、長明の法名(ほうみょう)です。
 つまり、「文学者・鴨長明」としてではなく、「念仏者(ねんぶつしゃ)・蓮胤」として『方丈記』を書いたのです。
 都の中では、念仏禁止令が出ていた時期です。自ら念仏者であることを公然と表明し、世に送り出すからには、決死の覚悟が必要だったはずです。
 はたして長明は、後世(こうせい)の私たちに何を伝えたかったのでしょうか。

美しい京都を襲った
      想定外の大災害

 仏教に出合う前の長明は、挫折を繰り返し、苦しみの連続で、自殺まで考えていました。
 それが、法然上人のご法話を聞かせていただいてから、喜びに満ちた人生に大変わりしたのです。
 自分だけでなく、同じように苦しんでいる人たちにも仏教を聞いてもらいたいと願って、『方丈記』を書こうとしたのです。それが、法然上人へのご恩返しになると思ったに違いありません。
 では、どのような書き方をすればいいのか……。彼は悩んだと思います。
 長明は、京都の下鴨(しもがも)神社の神主の家に生まれました。その経験から、他の宗教を信じている人は、「仏教は素晴らしい」という本があっても、なかなか手に取らないことを知っています。
 そこで、「仏教は嫌いだ」と言っている人でも、抵抗なく読める随筆(ずいひつ)を書こうと思ったのでしょう。
 仏教を前面に出さずに、
「なぜ、人生に、苦しみはなくならないのか」
「なぜ、仏教を聞かなければ幸せになれないのか」
を表すことに挑戦したのでした。
 長明は『方丈記』の冒頭で、こう語りかけています。

 宝石を敷き詰めたような美しい所、それが京の都です。
 ここが、都に定められてから400年、人々は、競い合うように、りっぱな住まいを築いてきました。
「こんなに苦労して建てた家だから、子や孫の代まで、末永く残ってほしい」と、皆、願っています。
 はたして、その願いは、かなうでしょうか。実際に調べてみると、私の若い頃に栄えていた家は、ほとんど残っていません。
「昨年、火災に遭ったので、建て替えたばかりです」
「今は、こんな粗末な家ですが、元は豪邸(ごうてい)だったのですよ」
と言う人ばかりでした。
 昔、顔見知りだった人を訪ねてみると、あの人も、この人も、亡くなっていて、ほんのわずかしか生き残っていません。
 都には、大勢の人が住んでいますが、朝、誰かが死んだと思ったら、夕方には、誰かが生まれています。
 まるで、浮かんでは消えていく水の泡(あわ)のように、人は生まれ、短い一生を送り、やがて跡形(あとかた)もなく消えていくのです。

 人々は、幸せになりたいと願って、りっぱな住まいを建て、財産を築こうとしています。
「そのような喜びは続きませんよ。いつか必ず、あなたを裏切っていきますよ」
と、どれだけ言われても、私たちの心は驚きません。
 そこで長明は、実際に京都を襲った大災害を、克明に記していきます。
 まず、火災の被害を、次のように書いています。

 私が生きてきた60年あまりの間に、「まさか!」と叫びたくなるような、想定外の災害に、何度も遭いました。それは、ある日、突然、襲ってきたものばかりです。
 あれは、安元(あんげん)3年(1177)4月28日のことだったでしょうか。風が激しく吹いて、ガタガタ物音が鳴りやまず、落ち着かない夜でした。折悪く、都の東南で発生した火災が、強風にあおられて、西北へ向かって、どんどん広がっていったのです。
 民家だけではなく、しまいには、帝(みかど)が住む大内裏(だいだいり)まで炎に包まれ、朱雀門(すざくもん)、大極殿(だいごくでん)、大学寮(だいがくりょう)……と、次々に焼けていきました。国家の威信(いしん)をかけて造った巨大な建物も、たった一夜で、灰になってしまったのです。
 火元は、旅人を泊める、粗末な仮屋だったようです。小さな火の不始末が、吹き荒れる風によって、ほうぼうへ飛び火したのでした。空から見ると、まるで、火元から扇子(せんす)を広げたように、末広がりに拡大していったのが分かります。
 火のつかない家は、まるで、もうもうたる煙にむせび、苦しんでいるようです。
 燃え盛っている家は、まるで、口から吐き出すように、炎を勢いよく、地面にたたきつけています。
 夜空は一面、真っ赤に輝いています。空に舞い上がった灰が、炎の光を反射しているからでしょう。
 恐ろしく勢いを増した炎は、風で吹きちぎられ、空を数百メートルも飛んで、別の家を次々に燃やしていくではありませんか。
 こんな炎に襲われては、誰も、生きた心地がしません。
 ある人は、煙で息を詰まらせ、倒れていきました。
 ある人は、炎で気を失い、焼け死んでいきました。
 命からがら逃げ出した人でも、家の中から財宝を運び出す余裕など、全くありません。生涯かけて蓄えた宝が、すべて灰になってしまったのです。
 この大火災で、都の三分の一が焼失したといわれます。その損害は、いったい、どれくらいになるのか、想像もできないほどです。
 人間が、いくら一生懸命に頑張っても、報われないことが多いのが、この世の中です。まるで、水面に浮かんだ泡が、ぱっと消えてしまってから、「儚(はかな)いなあ」「愚(おろ)かだったなあ」と知らされるものばかりではないでしょうか。
 人が多く集まる所は、当然ながら、火災の危険が高まります。そんな危うい場所に、家を建てようとして、生涯かけてためたお金を投入し、苦労に苦労を重ね、神経をすり減らしています。それは愚かな行為の中でも、最も愚かなことではないでしょうか。

私たちは、どんな世界で
    生きているのか……

 この大火災が起きたのは、長明、23三歳の時のことです。
 その後、竜巻、大飢饉、大地震……と、想定外の災害が都を襲いました。建物が崩壊したり、伝染病が蔓延(まんえん)したりして、どれだけ多くの人が苦しんだかしれません。
 長明は、その被害状況を調査して、格調高い文章で『方丈記』に記し、
「私たちは、どんな世界で生きているのか、見つめてください」
と訴えているのです。
 この大地さえ、激しく揺れたり、裂けたり、陥没(かんぼつ)したりします。まして、その上に建っている物は、いつ崩れてもおかしくない物ばかりです。
 生涯かけて築いた財産も、火災や竜巻などで、いつ燃えたり、吹き飛ばされたりするかしれません。健康を誇っていても、飢饉で食糧がなくなれば生きていけません。いつ、どんな病気が流行するかもしれないのです。
 このように見つめると、私たちは、いつ、どうなるか分からない世の中に生きていることが分かります。
 家も大切です。財産も大切です。しかし、それだけでは、いつまでたっても幸せになれないことは明らかなのです。
 長明は、若い時に目撃した災害の記録や、方丈庵での日々の生活を書くことによって、
「無常(むじょう)の世に生きる、煩悩(ぼんのう)いっぱいの私たちは、阿弥陀仏の本願に救われるしか、幸せになる道はないのです」
と表明しているのです。
 これは、『歎異抄』のメッセージと同じです。親鸞聖人は、次のように教えられています。

(原文)
煩悩具足(ぼんのうぐそく)の凡夫(ぼんぶ)・火宅無常(かたくむじょう)の世界は、万(よろず)のこと皆もってそらごと・たわごと・真実(まこと)あることなきに、ただ念仏(ねんぶつ)のみぞまことにておわします。 

『歎異抄』後序

(意訳)
火宅のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間のすべては、そらごと、たわごとばかりで、真実は一つもない。ただ弥陀より賜った念仏のみが、まことである。

※火宅……火のついた家のこと
※意訳は、高森顕徹著『歎異抄をひらく』より

 鴨長明は、『方丈記』を書いてから4年後、62歳でこの世を去りました。

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