ありのままを認めるために。
不登校の小中学生が過去最多を更新した。
それに比例してか、いじめの件数も増えているらしい。
コロナ禍の影響で生活環境が変化し、学校の人間関係をうまく構築できないケースが増えているのが一因とのこと。
だが、きっと原因はコロナ禍というよりも、もっと根本的な部分にあるのではないかと思う。
学校教育や、その中での子どもたちの集団生活がいかに薄氷のうえに成り立ってきたかという事実が、ここにきて露呈しつつあるのだと感じる。それは、私が小学生だったころから薄々感じていたことだ。
社会集団というのは、ちょっとでもその集団が決めた「普通」からはみ出せば、ストレスを感じざるを得ないようにできている。排除への慣性がはたらく。学校という閉じられたコミュニティであればなおさらだ。
しかし、わたしは単なる出版社の編集であって教育の専門家ではない。
だから不登校やいじめの問題に対してなにかクリティカルな考察や提案ができるわけではない。
だけど、曲がりなりにも「読書を通じて考える力を養う」という教育的意味を持ったプロジェクトを進める張本人として、子どもたちが抱える悩みや苦しみを無視することはできないと感じる。
さまざまな障壁のせいで、「考える力を養う」というフェーズに行けない子どももいる。本を読む気力すら起きないこともあるのだ。そんなとき、私たち大人はどうすべきなのか。
そんな考えを頭に抱いて悶々としながらネットを旅していたら、こんな記事を見つけた。
「生まれた家庭や地域、学校などの環境に関係なく、誰もが学べる社会を実現したい(https://info.eboard.jp/about_us)」という意志でNPO法人の理事をしている村山さんは、自身も不登校を経験している。
わたしが感銘を受けたのは、「ダメな自分」をどう受け入れるかという話だ。自身の不登校体験を大学の授業でプレゼンしたときのことを、村山さんはこう語る。
ハッとした。そしてこんな問いが生まれた。
私は、子どもたちに「ありのままでいい」と言えるような心を持っているだろうかと。
そう、これは子どもたちだけの問題ではない。
だれかに「ありのままでいい」というとき、必ずその言葉が鏡となって自分自身へ跳ね返る。
大人として生きる私自身が「ありのままの自分」を認められているのか。
ルールや固定観念でがんじがらめの大人に「ありのまま」を説かれても、子どもの心には響かないだろう。
「ありのままでいい」と最終的に自分を許すのは自分自身だ。
でも、その過程で、自分以外の誰かに自分のありのままを認められることは必要不可欠なのではないかと思う。
誰にだって、その人なりの悩みや苦しみがある。
誰もが同じ道を、同じスピードで進んでいけるとは限らない。
そんなとき、ちょっと脇道にそれてゆっくりと進むことを、草いきれにまみれて怪我をしてしまっても、疲れてうずくまって進めなくなってしまっても、その姿を肯定して、認めてくれる誰か。
弱くて挫折する自分を受け入れてくれる誰か。
その「誰か」に、子どもたちのまわりの大人がまっさきになるべきではないのか。
誰だって、昔は子どもだった。
子どものとき、大人になにかを強制されることや、訳知り顔で論破されることが心底嫌ではなかったか?
その事実や記憶を忘れて、あるいは覚えていても無視して、子どもにああしろこうしろと押し付けてしまうのはなぜだろう。
大人がいちばん、「ありのまま」であるのが怖いからではないか。
確実と思えるなにかにすがっていないと、不安になってしまうからではないか。
これは、子どもだけの問題ではない。大人にこそいま突きつけられている生き方への問いだ。
村山さんは、「自分の時間」を持つことが大切だと語る。
自分自身、日々どれだけ「誰にも介入されない自分だけの時間」というものを持てているだろうと思う。
忙しさを言い訳に、だんだんと狭くなっていく「自分の領域」を無視してはいないだろうか。
そこは、自分がありのままでいられる唯一の領域かもしれないのに。
読書は、「自分の時間」をつくる一つのアプローチだと信じている。
だからこそ、本が、役に立つとか考える力が身につくとかいう以前に、自分の悩みや苦しみに寄り添ってくれるものだということを、わたしは伝えていきたいと思う(ときには悩みや苦しみをより一層かき乱すこともあるのが厄介だけど)。
本は人生の救いにはならないという意見もあるけれど、私は違うと思う。
読むべきタイミングに読むべき本に出会えば、人生を変えたといっても大げさではない転機になることもある。
悩み、苦しみ、それでも前に進もうともがく人にとってこそ、本は価値のあるものだと信じている。
(「次世代の教科書」編集長 松田)