【本とお酒の日記③】夜のピクニックと合宿飲みの深夜2時(恩田陸『夜のピクニック』)
なんで私、こんな話してるんだっけ。
とうに空となった缶ビールを片手に、醒めたような酔ったような頭で考える。
時計の針が指すのは深夜2時。
私はサークルの合宿に来ていて、宴会がお開きになったあと、なんとなくその場に残ったメンバーでだべっていた。いつもはサークルの活動内容ぐらいしか共通の話題のない数人で、深夜2時になぜか『崖の上のポニョ』の世界観について大真面目に語らっている。
そもそも、私はポニョにはさほど興味はない。
子どもの頃、家に「ポニョかるた」なるものがあって、「ぬきとって ハムだけポニョが たべちゃった」という札の絵に描かれたポニョが大口あけてハムを食べていて、なんだかちょっとこわいな、と思っていたくらいの印象だ。
だから、ポニョの議論など、どうでもいいはずなのに、後輩の熱弁につられ、こちらも真剣な顔つきで言葉を返してしまう。
真剣なのだけれども、何しろ数時間前から飲んでいるし、いつもなら寝ている時間だし(睡眠ガチ勢なので、意外と規則正しい生活をしているのだ)、議論に生産性というものはない。
いや、どういう状況だよ、と頭の隅で冷静な自分がツッコミを入れる。あまりにも意味のない時間に、思わず笑ってしまいそうになる。本当にばかばかしい。だけど、愛しい。
愛しくて可笑しくて、こんな時間がずっと続けばいいのに、と思っている私がいる。まだ、終わらないで。数時間後に訪れる朝のことを思って、すこし不安な気持ちになる。せつない、楽しい、さみしい。いろんな感情をぐちゃぐちゃとかき混ぜながら、「なんで私、こんな話してるんだっけ」と呆れながら、やっぱり私はこの深夜2時の空気感が好きだ、と思う。
10代の頃からずっとずっと憧れてきた恩田陸の永遠の青春小説、『夜のピクニック』を思い出すから。
「みんなで、夜歩く。たったそれだけのことなのにね。
どうして、それだけのことが、こんなに特別なんだろうね。」(p31)
という引用を目にしたことのある人も多いかもしれない。
もちろん、読んだことがある人も多いかと思う。
物語で貴子たち北高の生徒は、最初から最後まで歩いているだけである。畦道、国道、畑、ゆるやかな坂道、海。移りゆく景色と、高校3年生という宙ぶらりんな時の中にいる貴子たちの会話、それぞれの気持ち。
それぞれが言えない気持ちを抱え、だけれど、歩行祭という特別な場でなら打ち明けられるものもある。
「みんなで、夜歩く。たったそれだけのこと」が特別なのは、非日常を同じ時間として共有しながら、自分と相手の境界が溶けていくような感覚を味わえるからなのではないか、と私は思う。
この作品をよく読み返していた中学時代、高校時代。「本当の自分をわかってもらいたい」という気持ちと「本当の自分をわかられたくない」という気持ちで、私はいつも葛藤していたように思う。友達とふざけていても、自分との間に壁が一枚あるような気がして、拭えない孤独がどこかにあるような気がしていた。
だからこそ、「夜のピクニック」に強烈に憧れた。
「みんなで、夜歩く。たったそれだけのこと」でわかりあいたかった。孤独を埋めたかった。
なんで自分の高校には歩行祭がないんだ、と地団太を踏んだあの日が懐かしい。
だけれど、今なら思える。
わかりあえる方法は、わかりあえたと思える方法はそれだけではない。
いつもは絶対しない、たいして意味もない会話だとしても、大真面目に語らう、その口から出る言葉は自分の奥底に眠っていた言葉で、だから、そんな言葉をお互いにぶつけていた合宿飲みの深夜2時の私たちは、すこし、わかりあえたような気持ちになれた。
「夜のピクニック」と合宿飲みの深夜2時って似てる。
星も見えない、一日歩いた疲労もない。だけど、半分寝ている頭でダラダラ話す、あの大好きな時間はきっと、私が憧れ続けた「夜のピクニック」に流れる時間と近いものがある。気がする。