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「徴候」として個人を見よ
インターネット上で「議論」をしてもあまり意味が無いので私はしない、と前に記事で書いた事がある。そのことと関連して、私は他にもインターネット上で自分なりのルールを決めているのだが、その中に「個人批判を極力しない」というものがある。
その個人をあまり傷つけたくないだとか、その個人からの復讐が面倒くさいだとか、いくつか理由はあるが、何よりも、「インターネットにおける議論」と同様に個人批判にもあまり意味が無いと考えているからである。ちなみに、個人批判に関しては対面・オンラインを問わず、低レベルなものだと思っている。
個人が引き起こす問題や害悪というものは、その個人を消してしまえば済むものではない。まず問題や害悪というものが社会の内に潜んでおり、それがたまたま何らかのきっかけで噴出し、個人という形をとって姿を現すのが普通である。もちろん、このことは、どんな人間もより大きな存在による操り人形であるだとか、どんな行為も究極的には個人にその責めを負わせることはできないといった議論とは無関係である。主体的な人間や確信犯というものは別に存在していてもいいのである。ただし、主体的に問題や害悪を引き起こす人間も、ある意味ではその存在を通して、私たちにこの社会のあり様を意図せず告げようとしているのである。
よって、問題や害悪を引き起こす人間というものは社会の症状・徴候として把握されなければならないのだし、私たちは彼のような存在が現れたことの大本の原因や文脈を視野に入れなければならない。当たり前のことのようで、これが意外と難しい。相手が本当に取るに足らないような小人物ならばまだ簡単に出来るのだが、相手が口だけは達者な論争家だったり、自分の内面をざわつかせるような人物だと、どうしても私たちの注意は個人に釘付けになってしまい、その目障りな個人を消せば問題は解決すると考えてしまうのだ。
しまいには、一部の学者やいわゆる「知識人」たちですら、個人批判・非難に現を抜かしている始末である。その中には、誰々との裁判の準備中だの、誰々とのメールの応酬をアップしたので皆さん見てくださいだの、見ているこちらが情けなくなってくるものも多い。本来ならばそのような人間たちこそ、個人の問題や事象の背後にある大きな流れを明らかにしなければならないはずなのに。
個人というものにいつまでもかかずらい、個人との戦いに躍起になる人間は、物事の表面に縛られたままでどこへも行けない。たとえ彼がその人間に優位に立っていようと劣位に立っていようと、彼はより大きな本質を見逃し続ける。
人間ではなく自然と正面きって対峙すべし。これが唯一の規律だ。おのれのあずかり知らぬ意志に依存するとは、奴隷となることだ。ところでこれは万人の定めである。奴隷は主人に依存し、主人は奴隷に依存する。一方を嘆願者に、他方を独裁者に、あるいは同時に両方に(「支配すべく万事において僕となる」)ならしめる状況。逆に、意志なき惰性的な自然をまえにするとき、人間は思考のほかに手だてをもたない。
だから、たとえその人物が犯罪的に下劣な人間であろうと、私は基本的に個人批判をしない。するとしたら、すでにその存在がもはや一人の人間の気質だけには還元できないほどの影響力を持っている作家や思想家に限定している。私は私の目を、私自身も含めて、卑小な一人一人の個人に固定するような品のないことはしたくない。自分を見つめる時も、相手を眺める時も、それらを何かの「徴候」として理解するよう心掛けている。