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映画批評 フリッツラング『M』または100人の怒れる男女


 フリッツ・ラングの『M』を視聴した。ところどころ眠たくなる映画だったが、終盤の展開に関しては、ラングの鋭い洞察と勇気とに脱帽せざるを得なかった。



1920年代、ドイツを震撼させた連続殺人鬼"デュッセルドルフの吸血鬼"ことペーター・キュルテンに材を採ったF・ラング初のトーキー作品で、光と影を効果的に使い、犯人の恐怖感や民衆の狂気を巧みに描き出している秀作。幼い少女が次々と惨殺される事件が発生。警察当局の懸命な捜査にも関わらず犯人の見当は全くつかず、やがて暗黒街にまで捜査の輪は広げられる。これを機に暗黒街の面々は独自で犯人探しを開始、浮浪者や娼婦まで動員し憎き少女殺しを追い求める。やがて盲目の老人の証言が有力な手掛かりとなっていくが......。


 物語の終盤で、ピーター・ローレが演じる連続殺人鬼はギャングに拘束される。魚のような眼玉をしたこの短小で臆病な殺人鬼は、彼らが拵えた疑似裁判にかけられることになる。ギャングや浮浪者、娼婦たちの怒号が飛び交う中、自分はやむにやまれぬ衝動と恐怖に駆られて罪を犯しただけだとして、殺人鬼は「公正な裁判」を要求する。彼を弁護するたった一人の老人の声も空しく搔き消され、殺人鬼は処刑の一歩手前に近づくが、幸か不幸か駆け付けてきた警察によってギャングもろとも逮捕され、正式の裁判所へと引き渡される。

 己の犯行が「不可抗力」であったことを泣き叫びながら訴えるこの殺人鬼を前に、怒れるならず者たちも一瞬躊躇するが、私は彼に「責任能力」なるものが欠如していたとはあまり思えない。八か月にもわたる警察の捜査を搔い潜ってきた男は、実際には物語の終始利口に立ち回っているのであり、新たな標的である幼い少女を目にした後に酒場へと寄ってコニャックを二杯注文するシーンなどは、自分の「やむにやまれぬ衝動」を抑えようとする絶望的な努力というよりも、臆病な自分を奮い立たせて新たな犯行を開始するための景気づけとして私の目には映る。

 だから、この殺人鬼を捉えたギャングや娼婦たちが、人のいい老弁護士に対して「この男に同情するな」と絶叫する箇所は、実際筋は通っているのである。筋が通っていないのは、この老弁護士が指摘するように、ギャングの頭領である「裁判長」も殺人の嫌疑をかけられている指名手配人であり、彼らが警察を出し抜いて殺人鬼を捉えようとした理由も、単に自分たちのテリトリーにまで捜査の手が及ぶのを恐れたから、だという点である。「正義」の名のもとに殺人鬼に死刑を要求するこの怒れる大衆の全員が、その実かなりろくでもないごろつき達に過ぎないという点である。

 だが、裁判を気取ったこの見せしめ小屋で、殺人鬼の言い訳や老弁護士の要求が有効であるはずもない。二人の男のそれ自体はもっともな言い分も、被害者に対する同情や加害者への私憤、純粋な自己利益などといったものを自身区別できない大衆たちの前では徹底して無力である。彼らは老弁護士に対してこう返事をする。「あなた子供いるの?亡くしたことは?子供を失った悲しみがあなた分かるの?」と。あるいは、「慈悲なんて不要よ。母親の気持ちを察すれば彼は死刑しかない」と。もしくは、「殺せ!処刑だ!怪物を消せ!」と。

 「絶対的な悪」を前にしてここまで人は単純になれるのかとため息をつく人は、ここで「劣等人種」であり「世界を牛耳る」ユダヤ人を殲滅しようとしたナチスを想起せざるを得ない。この作品が上映された二年後にナチスは政権を取ることになるが、その一年後の1934年にアメリカへと亡命したラングにとって、「絶対的な悪」の打倒を掲げたごろつきたちがいかに粗野で愚かに映ったかどうか、今となってははっきりとは分からない。しかし、ピーター・ローレがハンガリー出身のユダヤ人であったという暗合までも前にして、この映画に「いかなる政治的=社会的な背景なども読み取ってはなるまい」とするなら、一体そうした批評に何が残るのか私は知らない。

 幼い少女を惨殺し続けた愉快犯と、単なる陰謀論の犠牲になったユダヤ人を同一視することに違和感を覚える人には「ではもしユダヤ人に関する陰謀論が真実であったのなら、ガス室で殺されることも正当化できるのか」と問いかけたいところだが、重要なのはそうしたことではないだろう。いかなる極悪人であろうと、手続き的正義は守られなければならないという原則がこの映画では訴えられていること、ここが重要なのである。すでに書いたように、私はピーター・ローレの演じるこの殺人鬼が確信犯であることを疑っていない。また、当時の社会情勢を顧みると、この男がどのみち死刑を免れなかったことは想像に難くない。だが、この男がギャングたちの気儘な「私刑」から救い出され、「正式」な裁判へと引きずり出されたこと自体に、「法の正義」とやらの有意義性があることは間違いない。

 結果は重要ではない。問題は、手続きが「公正」であるかどうかだ、という常識を弁えていたからこそ、ラングは男が最終的にどのような判決を受けたかを映す必要が無かったのである。




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