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アウシュビッツ回想記



 2023年8月にポーランドのアウシュヴィッツ収容所を訪れたことがある。そこで最も強く印象に残ったのは、数多くの「非人道的」な施設群ではなく、ある展示パネルに書かれていた説明文だった。

 もちろん、他の施設群が私に何の感情も引き起こさなかったというわけではない。予想に反して非常に広大に広がっていた数えきれないほどのガス室や、もはや苦笑してしまうほど狭く作られた囚人達の生活スペース、そこで殺された名も無き人間たちの大量の遺品など、どれも異様な印象を与えるものばかりに満ちていた。

人間を少なくとも生かしたまま輸送する気すらないほど狭い滑車に人々は詰め込まれてこの収容所に到着した。


殺された人間たちの靴。


このそれぞれの穴に、10人以上の人間が寝泊まりをしなければいけなかった。


連合軍の攻撃によって破壊された収容所跡が、そのまま保存されている。


 「異様」というのは、それらが言語を絶するほどの残虐さの印象を私に与えたからではない。むしろ単に、何を思い何を感じればいいのかよく分からないという印象を与えたからだ。確かハンナ・アーレントも書いていたが、ナチスの強制収容所で起きたことを描写する様々の証言に、人はもはや同情や義憤心を感じることが出来ない。「そんなことが起きるはずがない」という、私たちに多かれ少なかれ備わっている常識が、それらを「非現実的」なものとして判断してしまうからだと。言われてみれば確かに、あの時の私も様々な遺跡群をどこか「非現実」的な感覚のまま通り過ぎていたような気がする。ナチスのドキュメンタリー映画やユダヤ人虐殺を題材にした小説の方が、まだ私に、「こんなことは起きてはいけなかったのだ」といった感傷や怒りを持つ機会を「実物」よりも多く提供してきたのではないだろうか。

 私に、何か人間らしいというか、普通の感傷や「怒り」を取り戻してくれたのは、ある展示パネルに書かれていた説明文だった。

 そこには、「敗北を目前にしたナチスの隊員たちが、迫りくる連合国軍が到着する前に、何とかして収容所における自分たちの『蛮行』の証拠隠滅を図ろうとした」という記述があった。軽い衝撃と怒りを感じたのを今でも覚えている。他の施設群にはそのような感想を持たなかったにも関わらず、である。

 「お前ら、『悪いこと』している自覚はあったのかよ」と呆然となった。もし、ナチスがそうした証拠隠滅など気にも留めずに徹底抗戦をする準備があったというのなら、まだ分かる。「自分たちは『劣等民族』を全滅させなければならないのだ」という信念を最後まで捨てず、「自分たちは『蛮行』など一切していない」と言い張るのなら、「許す」ことは出来なくとも、そのイデオロギーに骨の髄まで支配されていたのだなと、まだ「理解」は出来る。しかし、自分たちも内心では負い目を感じていたのであり、それが国際社会では決して許されないという「常識」はしっかりと持っていたとなると、話は全く別だ。私は、「負い目や後ろめたさを感じておきながら、どうしてあんなことを途中で止めれなかったのだ」という糾弾の念に駆られた。

 しかし、こうした私の戸惑いや怒りも、全体主義というものを未だに、何か合目的的なカテゴリーで捉えようとした結果起きたものだろう。アーレントは、全体主義体制を独裁者や党員の利益・目的といった観点から、あるいはこれまでに存在した独裁政権や暴政国家と比較して捉えることは不可能であると述べている。


「そして全体的支配は自己の領土を拡張し、次々に新しい地方を併呑し、最後には地球全体の支配を遂げようと努力しはするが、しかしそれは膨張そのもののため、権力そのもののためではなく、もっぱらイデオロギー的理由から、つまり、そのイデオロギーがあくまで正しかったということを世界的規模で実証し、そしてその整合性がもはやいかなる事実によっても乱され得ない虚構の全体主義世界を地球全体の上に打ち建てるためなのだ。」

ハンナ・アーレント『全体主義の起源 3』大久保和郎 大島かおり訳 p.277


 ここで重要なのは、全体主義が目標とする「虚構」という箇所だろう。全体主義社会にとって、自分たちのイデオロギーが実証される「虚構」の世界の実現に比べれば、戦争におけるドイツの勝利や経済的発展などは二の次三の次なのだ。さらに言えば、絶滅させる対象がユダヤ人であろうと、東欧人であろうと、ドイツ国内の障碍者や「反社会的分子」であろうと別に構わない。「来るべき高級人種」以外は殲滅されなければいけないというイデオロギーが実証されること、このことが最も肝心なのである。だからこそ、ヒトラーやナチスの上層部はドイツ人全体に関しては平然と軽蔑していたし、たとえ自分たちに経済的・戦略的な不利益になろうとも、ユダヤ人殲滅を実行したのだ。

 しかし、こうした虚構の世界にもいつかは終わりが来る。現実的・物質的な要因によって戦争続行が不可能となれば、虚構の世界を維持することも出来なくなる。連合国軍が迫る中、あの収容所内のナチスの隊員たちに起きたことは、イデオロギーの自覚的な脱ぎ捨てというよりも、まさにこの虚構の世界の崩壊だったのではないだろうか。

 虚構の世界が崩壊したとなると、そこにおいて実証されるべきイデオロギーも当然無となる。どれだけの残虐な行為によっても揺るがされることのなかった虚構の世界は、自分たちが久しく触れていなかった現実に一夜にして直面する。当然、毒ガスを用いた捕虜の大量虐殺が現実の世界で受け入れられる筈もない。この新しい世界で生きる権利を獲得するために、彼らは「蛮行」の証拠隠滅という現実への入場料を支払ったというわけである。

 だから、ナチスの隊員たちは、自分たちの信じていたイデオロギーが嘘だったという自覚があったにも関わらずあのような「罪」を犯したというわけではないだろう。虚構の世界がまだ健在だった時、イデオロギーは彼らにとって紛れもない真実だったのだ。しかし、イデオロギーは虚構の世界のおいてのみその生命を保っていたのである。現実に対抗して自分たちのイデオロギーを保証してくれる虚構の世界が崩れ去れば、彼らにとってそのイデオロギーは一瞬にして価値を失うのである。

 よって、こうも言えるかもしれない。あの証拠隠滅を図ろうとしたナチスの隊員たちは、あの瞬間においてのみ、全体主義的ではなく単なる「非人道的」な国家の市民に戻ることが出来たのだと。軍事的・経済的な利益はおろか、自分自身の自益すらも顧りみない全体主義のイデオロギーに染め上げられてきたナチス隊員が、やっと少なくとも私たちが理解できるような「自己保存能力」や「利己的な策謀」を回復したのだと。「蛮行」の証拠隠滅というあの時点において、ナチスの隊員たちと私たちは、もちろん裁かれる彼らと裁く私たちという関係においてではあるが、皮肉にも否全体主義的な人間関係をついに取り戻したのだ。


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