哲学を学ぶことは、多神教的な世界に馴染むこと
昔、東浩紀が若者への推薦図書のコーナーで次のようなことを書いていた。
詳しい出典を忘れてしまったが、たしかニーチェも似たようなことを書いていた。曰く、本を読むとき、人はその著者の欠点にはしばらく目を瞑らないといけない。欠点を無視して、なるべくその著者の最良の要素をじっくりと吸収した後に、はじめて欠点もより理解できるのだと。
私は、哲学を学ぶとき、特に古典的な哲学書を読むとき、こうした心構えは非常に重要であると考える。というのは、大げさに書くと、哲学を学ぶという行為は「多神教的な世界に馴染むこと」であると考えるからだ。
「多神教的な世界に馴染むこと」は、この世界では、自分という単なる人間では到底太刀打ちできない神のごとき思想家たちが、常にしのぎを削りあっているという状況を認めることである。なるほど、確かに哲学者といえども、彼らだって生物学的にはヒトであることは間違いない。しかし、何百年、いや、何千年という時の流れにすら耐え得る思想を編み出すことなど、常人にはほとんど不可能なことである。生物学的には同じヒトでも、彼らはもはやまったく別種の存在であるかのように映る。そのような意味で、彼らは一種の神なのだ。
しかし、彼らは神とは言っても、多神教の神である。つまり、私たちと同じように、嫉妬や怒りといった人間臭い感情も持ち、時には明らかにミスもする。だが、重箱の隅を楊枝でほじくるようにそうした点ばかりをあげつらい、「結局あいつらは俺らと何が違うんだ。あいつらが偉そうにしている権利なんてないんだ」などと結論付けるのは、あまりに性急で軽薄な判断であるだろう。そうした些末な点など余裕で上回る彼らの力量を理解しようとすることなく、あたかもこの地上には神などいないと決めつけるのは、単なる人間の越権でしかない。
単なる人間がするべきことは、結局あの神々の誰かに忠誠を誓い、全力で帰依することのみである。忠誠を誓ったその主人に対しては全身全霊に服従して、彼の得も言われぬほど素晴らしい技をなんとか感得できるようになるまで努力し続けなければならない。そうした徹底的な平身低頭を通して、単なる人間は自身も、何か神がかった存在にまでわずかなりとも上昇させることができるのだ。
繰り返すが、重要なのは、神々のごとき哲学者はあくまで多神教の神であるという点である。つまり、一神教の神とは異なり、彼らも別に完全無欠なわけではない。彼ら自身が必ず何らかの欠陥を抱えているし、しかも神々同士が互角に対抗し合っている。
つまり、人間は数ある神々の内の一人に徹底的に帰依しながら、同時に自分の主人はこの世界の原理を全て説明できるほど万能では全くないし、その主人と互角に渡り合う他の神々もこの世界には数多くいるという事実から目を逸らしてはいけないのだ。その一人の神の長所も欠点も知り尽くしてきたがゆえに、逆にその神への盲目的で最終的な帰依を自分に禁じないわけにはいかないのである。
しかも、この哲学者という神々は、向こうの方から改宗を許さないことは決してない。人間がある一人の神への信頼を失い、他の神からより強く誘惑されることになれば、その新たな神へ鞍替えしても別に構わないのである。既に書いたように、あの神々は互いに拮抗している。以前に仕えていた神の圧倒的な魔力から逃れたければ、他の神へ同じように全身全霊で帰依することで、そうした魔力を相殺できるのである。これによって、人間が一人の神の力に完全に飲み込まれてしまうことが防がれ、しかも人間自身がそのように飲み込まれてしまうことをたとえ望んでも、そのそれぞれの神の性質上難しいことが判明するのである。
哲学者というこの多神教の神々は、一神教的なあの神、唯一にして全てを超越したあの万能の神とは対極的である。よって、哲学を学ぶという営み自体が、「一神教的な神への帰依」とは対極的なものなのである。
「一神教的な神」と書いたが、これは現実世界における一神教の神、つまりキリスト教・ユダヤ教・イスラム教の神とは必ずしも一致しない。それらの一神教の神を信じながら、それと同時に、「多神教的な世界に馴染むこと」を心得ている人間などいくらでもいる。逆に、現実世界において多神教を信仰している人間だろうと、あるいはいわゆる「無信仰」の人間であろうと、彼らが「一神教的な神への帰依」と無縁であるわけではない。
現に、私たちの身の回りにいくらでもいるではないか。「国家」「民族」「伝統」「社会」「企業」などといったものを唯一の「神」として祭り上げ、それらに絶対的に帰依することで何とか救われようとしている人間たちが。
彼らは、一人の「神」を、それが何であれ、この世界を説明できる唯一の原理だと決めつけ、それ以外の「神」など絶対に存在しないし、もし存在するのなら必ず滅ぼさなければいけないと考えている。自分たちの唯一の「神」以外の「神」を徹底的に軽蔑・憎悪し、それらを出来るだけ排除しようとする。
なぜなら、「一神教的な神への帰依」を生きがいにしている人間は、他の「神」の存在そのものが既に自分たちの「神」の権威を掘り崩してしまうことを知っているからだ。そして、その唯一の「神」が権威を失うことが、自分の存在理由の消失と不可分であることを敏感に察知しているのである。
だから、彼らにとって唯一の「神」は、全知全能で永遠にわたって無謬の存在でなければならない。彼らは、「多神教的な世界に馴染むこと」を心得ている者なら持つ、「まあ、私の信じている神も別に完全ではないんだけどね」といったアイロニーとは無縁である。彼らは、このアイロニーに耐えられない。自分たちの唯一の「神」を相対化する視点を絶滅させることが、彼らの生きる理由なのだから。
哲学を学ぶということは、「多神教的な世界に馴染むこと」である。非常に強大であるが、同時に万能では決してない神々のごとき哲学者に仕えることを通して、人は自分の無力と同時に、主人への永遠の帰依も禁じられていることを悟るのである。