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どのみち「読むしかない」本
「この本を読めれば、他のどんな本でも読めるようになる」という噂に釣られて、もしかしたら少しくらい理解できるかもと手にしたのが運の尽きだった。ヘーゲルの『大論理学』、難しすぎて読んでいて気分が悪くなる。
もちろん、いきなり訳書を読む前に入門書を読んだ。
だが、まずこの入門書の時点で難しいのである。哲学の入門書は前提知識なしでもある程度理解できるように書かれており、そこで自信をつけて原典に挑み絶望するというのがよくあるパターンなのだが、ヘーゲルや他のドイツ観念論の思想家の場合、まず入門書で絶望しかける。
しかし、まあどのみち原典を読まなければ始まらないだろうと無謀にも挑戦したのだが、本当に難しい。『存在と時間』やニーチェの著作が簡単に思えてくるレベルである。流石に『純粋理性批判』も簡単だとは言わないが、それでも『大論理学』に比べれば幾分ましであると思えてくるほどだ。
『大論理学』の難しさは何というか、「そもそも何の話をしているのかが分からない」というレベルなのだ。ハイデガーであれば、「ああ、これは現存在の日常性を分析しているのだな」とか、カントであれば、「ああ、ここでは私たちの認識の形式が分析されているのだな」といった風に、具体的にどう説明されているかは難しくても、少なくともそこで何がテーマとされているかはイメージできる。
しかし、ヘーゲルの場合だと、それすらもよく分からない。もちろん、ヘーゲルが自分がこれから何を分析するかを書いていないというわけではない。自分はこれから存在について語るのだだとか、これから無と生成について分析するのだだとか、とりあえずの説明はしている。しかし、いざ「よし、ではヘーゲルは存在・無についてどのような論を展開するのだろう」といった心構えで読み進めていくと、たちまち迷子になってしまうのだ。「これは一体、そもそも何の話をしているのだ?」と。
論より証拠、実際にその難しさを体感してもらいたので、『大論理学』の「本質論」から一部引用する。
……事象は根拠から出現する。それは、根拠がなお下にあり続けるという仕方で、根拠によって基礎づけられ措定されているわけではない。措定するということは、根拠が自己自身に向かって運動することであり、根拠が単に消滅することである。根拠は諸制約と結びつくことによって外在的な直接性と存在の契機を獲得する。しかし、それを外在的なものとしてでも、外在的な関係によって獲得するのでもない。そうではなく、根拠として、それは自己を措定されてあることとするのであり、それの単純な本質性は措定されてあることにおいて自己と合致する。そして、このように自己自身を止揚する中に、根拠が措定されてあることから区別されているということの消滅があり、従って、単純な本質的直接性があることになる。それ故、根拠は、根拠づけられたものと異なったものとして後に残るのではない。根拠づけることの真理は、根拠がその中で自己を自己自身と結合し、従って、他のものへの根拠の反省が自己自身への根拠の反省であるということである。このため、事象は無制約なものであるのと同様に、また根拠のないものでもあり、根拠が没落していて根拠ではないかぎりでのみ、根拠から発現する。つまり、根拠のないものから、すなわち自己の本質的否定性ないし純粋な形式からである……
もちろん、もう半分まで進めてしまったので、このまま引き返すわけにもいかない。もはや単に字を追っているだけの読書だが、とりあえず最後まで読み進めるしかないだろう。読んでいる途中、軽いめまいやため息が止まらないが、このレベルの本は数回読んだ程度ではどうせ分からないのだからと割り切って、ひとまず読了したいと思う。
実に不思議な読書体験ではある。こんなにも疲れて気が塞がりそうになると同時に、何かぞくぞくとした仄暗い期待のせいで先に進みたくなるような本はこれまでになかった。必ず読み終わりたい。そして、最終的に、必ず内容を理解してやる。