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大腸無いのに摂食障害
私は中学3年生の時、摂食障害になりました。きっかけは中学2年生の時です。
一年間入院して痩せたことにより、ポッチャリ体型から痩せた体に✨
運動が楽しくなってダイエットにはまったのがきっかけでした。
私は小腸ばかりで、大腸が殆んどありません。
現在、ヒルシュ・スプリング病の原因は遺伝性と判明され、治療法も確立されています。しかし、私が生まれた時代には、原因も治療法も不明。
殆んどの子が亡くなり、一生歩くことも出来ず寝たっきりな状態になってしまったそうです。
そんな中で私は、運良く健康的な体で育ちました。
大腸が殆んどないのですから、普通は痩せた体型になります。
外科の先生にはよく「この病気でこんなポッチャリな子は初めてみた」と言われます。
まぁ、ポッチャリといっても、亜鉛や鉄などの吸収が悪いため、中身はいつもカツカツ。
薬を飲まないといけません。
病院の先生は、普通の食事だけでは栄養吸収が足りないから、沢山食べようするのでは?と言っていました。
まぁ、そんな中、中学2年生の入院では、殆んど食べることが許されず。
見事10キロくらい痩せて、退院したときは50キロくらいになりました。
それから世界が輝いて見えました✨
中学に入って吹奏を初めてから、喘息も治りましたし、運動が楽しい楽しい✨
こんなに自分が走れて、飛べるなんて思いませんでした。
私はもっと痩せたいと思うようになりました。
1年間の入院で、殆んど食事を取ることは許されず、点滴のみの生活に慣れてしまったせいもあり。
食事をとらなくてもいいようになってしまったのです。
今までは運動できなかったせいで、食べ物にストレス発散を求めていたのですが、
運動をストレス発散に充てるようになったのです。
そして、中学3年生だったこともあり、私は受験生でした。
1年間、院内学級に通っていたものの、殆んど勉強が遅れています。
家に帰ってから室内バイクがあったので、それを漕ぎながらテキストを読むのが習慣になっていきました。
夜も親に勉強を教えてもらっていたこともあり、プレッシャーもありました。
それから秋、冬にかけてエスカレートしていきます。
給食は一口も食べません。
夜も食べたフリをして、捨てたりしていました。お弁当があったら、自分でカロリーを計算し、100カロリー内のお弁当を作り。
朝の3時から室内バイクを漕ぐようになり、勉強も同時にしていました。
面白いように痩せていきました。
回りからは心配され、給食も何故か校長室で食べるようにされました。でも、一口も食べません。
また、食べもしないのに急に虫歯が増えて、歯医者にいくことも増えました。
もう回りの声は聞こえず、私はカロリーを消費するのに必死でした。
そして、高校の推薦に合格した日。
病院に連れていかれ、速入院。
24キロまで落ち、耳も殆んど聞こえず、低体温で、心拍も呼吸も低い状態でした。
私もここまで陥ったとき、止められない自分が怖いと思っていたので、心底ホッとしていました。
毎日自転車を5時間漕ぐのも疲れていましたし、受験も終わって気が抜けたのか、2・3日は一日中寝込んでいました。
それから拒食症の治療が始まりましたが、なかなか食べることが出来ませんでした。
1日5食、3食は山盛りの給食と同じ量で、2食は山盛りのおやつでした。
それを間食しなければならなかったのですが、やはりカロリーが気になって食べられません。
食べたフリをして、ティッシュに包み、捨てたことも何度もあります。
しかし、体重が増えない限り、食べた証拠にはならないんですよね。
朝はお昼近くまでダラダラたべ、昼は3時のおやつまでダラダラ食べる行為を繰り返しました。
少しでもカロリーを消費する為に立って本を読んだり、ゲームしたりしていましたが、見つかる度に看護師さんに怒られていました。
親にはめちゃくちゃ攻めらましたよ。
これは病気のせいじゃない。
お前自身が起こした問題だろうと。
せっかく高校にも受かったのに台無しだ。と父にはこてんぱんに言われてました。
そして、夜中には心臓が止まりかけて何度も起こされました。
なんで起こされていたのか、あの時は分かりませんでしたが、脈拍が30台の時もあって、今ではありえなかったなぁ。としみじみ思います。
心理内科の先生にも会いましたが、性格が合わず、変えてもらいました。
その先生は怒るわけです。今までの体重グラフを見せつけて。
どうしてこんなことしたの?自分でも分かっているだろう。早く食べないと高校にもいけないよ。
そんなのは分かっているのです。父にも母にも攻められてばかりで、私は怒られるのに限界を感じていました。
次にあった心理内科の先生は穏やかで、女性の先生でした。でも、話を聞いてくれるだけで、私の実にはなりませんでした。
そうこうしているうちに、高校の入学式になりました。
入院して二ヶ月半。
入学式には出られたものの。通うことは許されず、留年することが決まりました。
そして、最悪なことに、去年1年治療していた場所が内部で膿み、手術しなければならないほど、深刻な状態になりました。
拒食症によって痩せた体に免疫がなく、自力で治す力も弱まったせいで、再発してしまったのです。
最悪でした。
おかげで、拒食症の治療は中止、外科に転属となりました。
本当は自分で食べて体重を増やさなければならないのに、そんなことをいっている場合ではなくなったため。
高カロリー点滴で、無理やり体重を増やされました。ですが、膿の巣は広がる一方。
手術して、暫く経つと再発→手術。また暫く経つと再発→手術。
食事が再開してはすぐ再発してしまい。
手術する期間がどんどん短くなりました。
ついに1週間に一度のペースで、手術するようになった時、このままでは命の危険があると言われ。
ストマー(人工肛門)を作ることになりました。ショックでした。
華の女子高校生なのに、なんでこんなことになってしまったのでしょう。
親は反対しました。乳児期にストマーを経験し、苦労と大変さが分かっていたからです。
それに大腸がないようなものです、普通のストマーのように上手くいかないのは明白でした。
しかし、このままでは死んでしまいます。
私はこの時、初めて両親に言いました。ストマーを作らせて欲しい。と、
結果、自分で招いてしまった病気です。
私は今まで何度か狂っていました。
膿が出来れば、痛みが酷く、再発と手術の繰り返しにうんざりしていました。
いつ治るのか、見通しがたたない。
焦りと恐怖。
このまま高校に行けなかったらどうしよう。一生入院しなきゃいけないのかな。
泣いて喚いて情緒不安定になり、先生や看護師さんを困らせました。
自傷しようとしたり、死にたいと何度も思い。退院したら切ろうと思ってた髪もハサミで短く切り落としました。
ハサミもみんな取り上げられて、私は自分が壊れたと何度も思いました。
拒食症だから、散歩に出ることも許されない。ベッドから降りて作業するのも禁止。
あんまりでした。早く解放されたかった。
体は生きていても、心だけが死んでいくみたいで嫌でした。
膿むと痛くて一晩中叫びます。膿が爆発して流れていくのが分かりました。
熱も上がって何がなんだか分かりません。
月を一晩中見ながら泣きました。
痛いのはもう嫌だ。死なせて欲しい。
終わりにさせるため。先に進むために、どんなに大変な手術でもやるしかない。と心に決めましたが、それがまた困難な道のりでした。
ストマーは失敗し、結局もう一度作り直しになり。大腸がないせいで、消化液が強く、肌が捲れて焼けました。
毎日、痛くて泣きました。
皮膚の損傷が激しく、器具も取り付けられません。それなのに、拒食症を治すため。体の免疫力や傷を治す力をつけるために食事を取らなくてはなりませんでした。
私は3ヶ月くらいトイレにも行かせてもらえない、寝たきりになりました。
お腹から毎日便が溢れて、ガーゼとオムツと太い管を差し込んで押さえます。
私の楽しみは最終的に食事になっていました。
長い入院のなかで、テレビカードは使えず、本も飽き。好きなアーティストもいなくて、折り紙を細かくちぎって、米粒サイズの鶴とか永遠に折ってました。
便が体を伝って看護師さんを呼んでも、看護師さんも忙しくすぐには来てくれません。
忙しいのもよく分かっていましたし、私の処置には時間がかかります。
私は酷い諦め感と、我慢強さを覚えました。でも、怒ったことはありません。
怒っても仕方ないですし、どうにもなりません。誰のせいでもありません。
自分のせいです。
心はとっくに死んでいましたから、怒ることもせず、ぼうっとしていたのではないかと、今では思います。
結局、やっと落ち着いて拒食症の治療が始まったのは冬になってからでした。
今まで散々な状況に追い込まれたおかげで、拒食症の治療はすんなり行くようになりました。
今までの治療と比べれば、食べればいいだけ。痛いことはありません。
食べれば動くことも許されます。
また、長い入院生活の間に、看護師さんや病棟保育士さんとも仲良くなり、いじめられていた頃の「一人」ではなくなっていました。
誰かに我が儘をいったり、相談する方法を知り。親の考えが絶対ではないと知りました。
色々な人がいて、みんな悩んでいる。
考え方が広がり、変わりました。
また、家族とウノをやったり、弟が気遣ってくれて、交換ノートもやりました。
家族との絆が深まったと実感したのはこと時です。
私は本当に沢山の人に支えられ助けられました。感謝しかありません。
本当にありがとうございました。
そして、そこから退院出来たのは来年の春だったと思います。
結局1年以上入院してました。
やっと高校1年生。終わったかと思えば今度は過食症へと変わってしまいます。
まだまだ続きますが、どうかお付き合いください。
それではまた明日書きたいと思います✨