起きていることに「答え」なんてない、と思う
先月後半から、身の回りでアレコレとトラブル・不具合が続いたんです。
それも昨日できれいサッパリ片付きました。
その辺のいきさつはこの2つの記事に書いています。
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で、こんなふうにトラブル(望まないコト、うれしくないコト、困ったこと、不調、不具合)が連続すると、すぐにこう言ってくる人がいます。
それはそれは、いろいろと意味づけをしてくれます。
もちろんどの方も良かれと思っていってくださっているので、そのお気持ちをありがたく受け止めています。
でもね、起きていることにどんな意味があるのかなんて、いったい誰にわかるでしょう?
そもそも、起きることそのものに「意味」なんてあるのでしょうか?
(原因はありますが、原因=意味ではないですよね)
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たとえば――
これは何に見えますか?
アイコン素材から取ってきたもので、これは炎をデザインしています。
わざとバックを赤っぽくしたので、炎らしく見えたでしょうか?
でももし、この色だったら?
なんとなく、水滴みたいにわたしには見えてきます。
でもどちらも元は同じものです。
何がどう見えるのか、というのは、文字通り言葉通り、その人にとってそのように「見える」ことです。
その本質や実体、あるいは事実とは別のもの。
ひとりひとりの脳内で起きている解釈ということです。
画像のオリジナルはこれです。
どうでしょう?
心の目をまっさらにして、じっとこの図柄を眺めてみてください。
見れば見るほどに、なんだかいろいろなものに見えてきませんか?
あるいは、名付けようのない、なにか見知らぬものだと感じるかもしれませんね。
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考えてみると、そういうことって、たくさんあります。
というか、よくよく見なおしてみると、そんなことだらけです。
毎日生きているなかで「これは何?」と思うことはしょっちゅう起きる。
そして、それが何なのかわからないままにして置くしかないこともあります。
だって、そもそも、起きていることに答えも意味もないのだから。
すぐに答えや正解を探してしまうのは、現代の学校教育の弊害かもですね。
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物事にはそもそも答えなんてない。
答えもないし、正解もない。
いいとか、悪いとかも、ない。
モノゴトはモノゴトそのものとして存在していて、そこに答えや正解、良し悪しの評価をつけているのは、人の心や体験からくる感情的な反応です。
答えは後になって、結果として、「ああ、そうだったのかな」と自分が納得するなにか、でしかありません。
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そもそもわたしたちは、答えを見つけるため・正解するために、生きてるわけじゃないですしね。
と聞かれたら、わたしは迷わずにこう言います。
それが、「いま」私が感じていることです。
そして、それは「答え」ではないのです。
あくまで、今この時のわたし自身を内観して感じたことです。
明日には、あるいは、1時間後には、もしかするとそれは変わっているかもしれない(笑)
でもそれで、いいのだと思います。
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起きることや物事に、答えや正解を求めると、どうしても「今この時を生きている自分」が見えなくなります。
なぜなら、外側に答えを求めてしまうからです。
でも、自分の人生の正解は(正解というものがあったとして)自分が決めるものです。
だって、自分の人生なんですから!
人から100点満点と言われても、自分が幸せを感じていなかったなら、満足できていなかったなら、意味ないでしょ?
「生きる」と言うのは今この瞬間の連続。
だから、物事の意味を必要以上に追い求めず、心の基軸を自分の外に置かずに、答えは自分の内側に求めたい。
そうして生きていったある時に、気がつくのです。
「ああ、あの時に起きたあの事には、こんな意味があったんだな」と。
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日々を満たされて生きるために、誰にでもできるささやかな幸せ習慣。
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