あなたの命はあなただけのものじゃない。

 5月の連休も終わり、通常どおりの仕事という現実に戻って早くも疲れ果てている人が多いだろう。

 世の中には「5月病」なる言葉がある。その症状とは新年度がはじまり、進学や就職、異動によって変わった環境に慣れたにしても慣れていないにしても、馴染めていたとしても馴染めていなかったとしても自分が置かれた環境の「何か」にウンザリとして逃避したい状態という認識でよいだろうか。

 そんな中やってくるGWという必ず終わり、終わったあとに強制的に現実に引き戻されるという身体を休めるには長く、心を休めるには短いイベントがある。

 私にはあまり関係ないのだが、暦が休日に関係があった時期を思い返すと旅行に行って「あー疲れた」と言って帰ってくるという、よくわからないことをしていた気がする。それが悪い気分というわけではないが連休明けを考えると陰鬱な気分になったものだ。

 新しい環境ですでに心を病んでしまっている人もいることだろう。そういう人は休みから仕事という揺れ戻しが、なおさらにツラいと思う。学校では夏休みなど長期の休みが終わるころに自ら命を絶ってしまう児童や生徒が多いというのを耳にしたことがある。それと同様だろう。実に悲しく、痛ましい。

自分の身体の状態

 そんなことを考えているなか、私が住民票を置いている区の役所からデカい封筒が届いた。健康診断のお知らせである。

 組織に所属しなくなって早10年。私は健康診断というものを受けたことがない。身体に大きな不調がないからだ。そして何か悪性のものが見つかってしまうのが嫌だからだ。
 持論だが病気というものは発見されるまでは「ない状態」で発見されたときに初めて「ある状態」となる。それに則ると今の私の身体に悪性のモノは「ない状態」である。
 これが屁理屈なのはわかっているが、この考えは変わらない。しかし今年度は受診してみようと思っている。なぜなら自分の健康は自分だけの問題ではないからだ。

身近な人の死

 そう思ったきっかけは昨年末の父の死だ。父は高齢者となり、見れないと諦めていた孫の顔も見れて、本気で「いつ死んでもよい」と言っていた。

 ちょうど10年前に患ったガンも再発することなくピンピンしているように思えたのか、生来モノグサな父は月イチの健診をしだいに受診しなくなっていったようだ。

 そんな父が体調不良を自覚して、ただの風邪だと1週間ほど放置したが一向に回復しない。母から私に泣きが入り、電話で説得して大学病院で診察してもらったところ即入院となった。そして、その2週間後に逝ってしまった。

 また私は学生時代の友人をすでに3人、亡くしている。1人は原因不明、1人は副鼻腔ガン、もう1人は自死。3人とも20代だった。
 あと関係ないが小中学校時代にツルんでいた仲間の1人は逮捕された。これは自業自得である。逮捕されても不思議ではないようなヤツだった。しかし今の私にもこの記事にも一切、関係がないので詳しくは語らない。

 当たり前だが身近な人間が亡くなると悲しい。悲しいのだが、私は心のどこかで彼らがこの世にいないと認めていない。彼らを思い出すことは日常生活でもよくあるし、学生時代に一緒にやらかした可愛いやんちゃがまたできるような気がすることがある。

 それは私と彼らが社会人となり毎日、顔を合わせるわけでなくなったからだろう。家族となれば、その喪失感は言い表すことができないほどであるのは想像に難くない。

自分で死を選ぶ権利はない

 父はもちろん亡くなった友人の葬儀にはすべて参列した。そのときは彼らが死んだという実感がないこともあり、憔悴している家族の皆さんの姿を見ることが何よりツラかった。そして、そのたびに思った。

 人の命は個人だけのものではないのだ、と。

 人間は自分の意思と関係なく世に生まれてくる。そして昨今だと無理ゲーだとかクソゲーだとか言われる理不尽な社会を生きていくこととなる。その社会をリア充と呼ばれる人々のように、たとえそれが虚構であっても、刹那的であっても人生を全力で楽しめる人ばかりではない。私だって自ら命を絶ちたくなったことは一度や二度ではないのが本音である。自分の人生でやるべきことは、すでにやりきった気分でいる。たとえるなら、ばいきんまんがいなくなった世界で生きるアンパンマンのようなものだ。

 ちょっとわかりづらいか。
 とにかくハリがない。

 いつ死んでも悔いはなく、必死で生きる必要があるほどの責任を背負っているわけでもなく、この先の人生で楽しいと思えることがあるのか?と何かに期待することもほぼない毎日を今、現在の私は送っている。

 しかし人間は自分の意思でなく生まれてくる以上、どんな状況となっても自分の意思で死ぬ権利なんかは持ち合わせていないのだ。誰であっても。人には必ず親がいる。そして誰かしらと繋がりを持っている。独りで生きている人はいない。

 人の命は自分だけのものではない。家族や友人、知人のものであり、社会のものでもあるのだ。そんなことを言われても今この瞬間、死にたいと思っている人には響かないかもしれない。が、自ら死を選ぶということは「逃げ」ではない。逃げ場をなくした人間の自己破壊行為だ。

逃げ場があるうちは逃げろ

 仕事や職場がツラいならば逃げればよい。私は音楽から逃げた。あのまま脚本家と並行してバンド活動を続けていたら、生きていなかった可能性がある。そう思ったから逃げた。

 そして生きることを選んだ。自分のため、そして家族やいい奴ばかりの友人たち、そして亡くなった3人の友人たちのために。

 もしも、この記事を読んでいるあなたが生きるのがツラいと思うことがあったときは、まず美味いものを食べてほしい。悩んだりするのはそのあとだ。そしてYouTubeでも何でもいいから好きな芸人の姿を観て、笑って一日を終えてほしい。

 せっかく生まれてきたのだ。
 思い切り好きなことをして、感情をぶっ放せ。
 人間、どうせ死ぬ。
 自分の意思でなく自然に死が訪れるまで生きていくしかないのだと人の死に直面すると感じずにはいられない。

 暑苦しくなってしまったが、私はそう思う。
 あなたの命はあなただけのものではない。
 生きるのをやめたくなったら私の家に来てくれ。
 世界一うまいスモークサーモンとしめじのクリームパスタを作ってやる。
 それを食ってから改めて考えてみてくれ。


これが世界一うまいパスタである。

 ということで、私は今年度は健康診断を受けてくる。今、死ぬわけにはいかないのだ。

 私は独りではないのだから。

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