価値=希少性 争いの原理

たとえば石ころとダイヤモンドの価値と希少性を比べてみたらいいだろう。もちろん、ダイヤモンドにはデザイン的な価値もあると言える。ではなぜ石ころにデザイン的な価値はないのか、あるいはなぜそこで優劣がつくのだろうか。私たちが偶然にそのような感性を持って生まれてきただけなのだろうか。

もし価値を決めるのが生得的な感性のみであるのならば、(少なくとも絶対に)ここ100年の人類に生物学的な変化はないのだから、100年前の流行りは今でも流行らなくてはならない。そして100年前からしても、さらに100年前の流行りが流行らなくてはならない。しかし、どうしても時代と価値観は一致しない。リバイバルという形で昔の流行りが復活することはあるが、いずれ同じように廃れるのだ。

もし、技術的な発展の違い……たとえば昔は1種類の口紅しかなかったからそれを大切に使っていたが、今はいろんな種類があるのでそれをやめたというだけのこと。単に技術的に優位な物がより価値を持つと言うのなら一瞬でもリバイバルが起きる理由が分からない。

だが価値が希少性であるのなら納得がいく。
廃れたものは却って珍しいから復活するし、復活したから珍しくなくなって廃れる。もちろんなにが復活するかは今を生きる人々の感性にも寄るが。

また、戦争は常に後世で批判されるのにも関わらず発生するのもこれと同じような理由で、時代によってはなにが希少かは異なり、それに伴って行動も異なるからだ。飢餓の時代では食料の希少性=価値は高いから殺し合う原因になるし、飽食の時代では生活困窮者がスーパーで万引きをするくらいになる。

また一個人の視点に基づいて考えると分かりやすい。ある日に1週間分の食料を買い込んだ者が次の日にまたスーパーに行くことはあるだうか。あるとしても、同じ物は買わないだろう。

ゆえに価値=希少性なのである。あるいは需要=不足、欲求=飢えとも言える。
これは争いの原理でもある。

需要があるとして、それが極まった場合、つまりその需要を満たさねば死ぬと考えるような場合で原始的な争いは起きる。死ぬまでは行かなくても、飢えれば暴れる。それが戦闘と戦争である。

希少性とは相対的な概念である。ダイヤモンド1個と石10個があればダイヤモンドの方が価値は高いし、ダイヤモンド10個と石1個なら石の方が価値は高い。また、ダイヤモンド10個と石100個でもダイヤモンドの方が価値は高い。
そのように基本的な価値はいつでも相対化してしまうので、いつでも奪い合いになる。それが棍棒を使うか、金銭を使うか、という手段の違いだけで、物を巡ってはお互いの力の押し付け合いになる。

しかし相対化しない価値もあって、それはこれから研究されるだろうが、少なくとも第一には生命である。なぜなら、命なくしてはあらゆる物にも価値がないからだ。どれたけ生前に稼いでも、あの世に持っていけるのは六文だけである。相対化しない価値とは、相対化を成り立たせる価値である。相対化で発生する価値が相対化を成り立たせる価値を否定することはできない。
自殺すらも生きていなければできないから「死んだ方がマシ」と思う者は死んでいなくてはならない。自殺するのすら面倒なら「自殺するより布団に寝っ転がっていた方がマシ」となるから、布団に寝っ転がる=生きているからこそできることの方が価値がある、となっている。また、遺書に「死んだ方がマシ」と書いていても、書くことが今すぐに死ぬよりも重要だったことを意味している。

さて、これまで長々と文章を書き連ねたが、この理屈には致命的な問題が一つある。それは、相対化を成り立たせる価値以外の価値については主観的にしか認識できないということだ。

たとえば、人生の一瞬一瞬は決してやり直すことができないし、個人はこの世に1人しかいない。それでも私たちは0.0000001秒のスケールでは考えられないし、全人類を慈しむようなことはできない。それは、一瞬一瞬や個人というミクロなものを時間や人類というマクロなもので捉えているからだ。いわば解像度の問題だ。私たちはこの解像度をあまりコントロールできないがために非合理に、無作法に、野蛮に生きてしまう。そうでなくては戦争は起きない。

群れから国に、朝日が昇る前から歴史に発展した今日この頃、マクロ的な視点はどんどん強まっている。人間は人間が人間になったときから個人というミクロ的な存在であるにも関わらず。だから国家の利益のために人間は死んでいくのだ。

私は今だからこそミクロ的な視点を大切にしたいし、ミクロ的な視点に立てば、多くのものが希少だと感じられて、世界と生活は豊かになるだろう。
俗っぽく言えば、Instagramに上げられる高級フレンチやブランド品に幸せにしてもらうよりも、家族やパートナーが作ってくれる毎日の料理やただ単に好きなだけの服に幸せにしてもらう方が、金銭力の押し付け合いが始まらずに平穏だということだ。

もちろん感性を否定するわけではないから、どちらも幸せだと思う。ただどちらでも幸せになれるのなら後者の方がより大勢の利益になるだろうというだけのことだ。

価値を無理矢理にでも作らなければならない記号消費社会に移りつつある先進国では、消費が急に落ち込めば生産の価値が暴落する資本主義国では、このようなことは難しく思えるかもしれない。それでも、文明の発達した国家にしか、相対化されない価値を守る力はないように思われる。また、飢餓に苦しむ後進国はもちろん飢餓の恐怖が身近な発展途上国にも難しいと思うのだ。
いち早く飽食の時代を迎えた私たちが冷静に人類史を振り返ること、これが世界における義務なのだろう。

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