河野宏子『お父さんがくれた半分と』を読んだ話
高校時代から付き合いのある親しい友人の父が、今年の1月3日に亡くなった。ここ数年は自分で歩くこともできず、認知症も進行し、施設に入っていたのだが、年末から体調を崩し呆気なく逝ってしまった。
コロナ禍のせいで施設での面会もなかなかできなかったようだが、去年の晩秋に一度だけ家族で面会に行く機会があったという。
「おれの顔見て、何か言いたそうに口動かしてたけど、何て言ってるかは分からへんかったわ。あれは何を言いたかったんやろな・・・」と友人が言うので、「親が子どもに何か一言だけ伝えるとしたら、たぶん“がんばれ”って言うんちゃう。親父さんもきっと“がんばれ”って言ったんやで」と答えた。
何気ない会話の流れで深く考えることもなく発した自分のことばだったが、彼の父の訃報を聞いてから、改めてそのことを考えた。
彼の親父さんが本当に言いたかったことばは何だったのか。
そして、ぼくなら、自分の娘にどんなことばを伝えるのだろう。
年が明けてから、そんなことばかりをぐるぐると考えていた。
そんな時、ある詩集と出逢った。
河野宏子さんという詩人の『お父さんがくれた半分と』という詩集である。2021年9月に肺がんで亡くなった父とのさまざまな思い出と、最期を看取るまでの日常のできごとを綴った作品で編まれている。
現代詩、と聞くと多くの人は難解でよくわからないものを想像するだろう。あるいは、嘲笑交じりに「詩? ポエムでしょ」と、いわゆる厨二病的なちょっとイタいものを思い浮かべるのかもしれない。
河野さんの詩はどちらとも違って、ごく普通のことばで書かれている。ぼくたちが日々使っている、ふつうの日本語だ。詩を読んだことがない人にも自然に読めるだろうし、たぶんあなたが知らない(読めない)漢字も出てこないと思う。
ぼくはこの詩集を読んで、泣いた。京都で開催された文学フリマで、河野さんから直接購入し、大阪に帰る京阪電車の中でボロボロ泣きながら読んだ。
父と娘というのは、どれだけ仲が良くみえても、どこかしらその関係性にぎこちなさがあるものだ。親子としての親愛の情は互いに持っていても、それを本当にちゃんとことばで伝えるなんてことは、まずなかなかないだろう。近いものがあるとすれば、結婚披露宴で「お父さんへの手紙」を新婦が朗読するというイベントぐらいだろうか。でも、あれはあくまでもイベントであり、出し物のひとつにすぎないと思う。手紙を読む娘の涙も、それを聞いて泣く父親の涙も、本質的にはその手紙に書かれている「ことば」によってではなく、その状況や流れるBGMといったお膳立ての上で演じられる「披露宴の新婦とその父親」というロールプレイに近い。
そんなわけで、素直になりきれない父と娘の間には、「語られなかったことば」──言い換えれば「ことばにして伝えられることがないままの思い」がたくさんある(たくさんある、と言ったものの、それは「語られていない・ことばにされていない」だけで、本当のところはそういう思いが「ある」ということは、父親にも娘にもわかっているのだが)。
この『お父さんがくれた半分と』という詩集は、そんな父と娘の「語られなかったことば」そのもののように思える。一冊の詩集の中にゆっくりと流れていく時間の中で、父と娘が互いに「語られなかったことば」を交わし合う。そんな、切なくて悲しくて、そしてあたたかな詩集だ。
どの作品も本当にすばらしいのだが、その中からいくつかをここで採り上げてご紹介したい。
『いしきのかわ』というタイトルの作品。
自宅に戻ってきたお父さんは日に日に衰弱していき、苦しそうに空のある方に腕を伸ばす。その姿を河野さんは、「お父さんは自分の体を出て/いしきのかわを渡りたがった」と描写する。言うまでもなく「川」は生と死の境界。向こう側へ行こうとする父を繋ぎとめるように、河野さんは妹と二人で、お父さんの細くなった腕を支える。そこから視点は、記憶の中のシーンへとリンクする。
「あの時わたしの頭を抱え岸へと戻った腕のちから」というポツンと呟くような一行。その先にある、ことばにならない熱く切ない感情。それが堰を切って溢れだそうとするのを歯を食いしばって飲みこむかのように、ここでこの詩は終わる。
溺れる二人の娘を一人で同時に助けた、力強い父親の姿。その時感じた、その腕の力。それが、今にも消えようとしているという残酷な現実。それを敢えてことばにしなかったことで、作者の思いがこの一行に祈りのような形で結晶している。
『おかえり』という作品は、車椅子に乗って自宅に帰ってきたお父さんを迎え、おでんを食べながらビールで乾杯した日のことを描いている。ほとんど食べることも飲むこともできなくなり、意識も混濁気味のお父さん。
「ごめんな、ごめん」というお父さんのことば。
そこに込められた感情が、痛いほどわかる。
どれだけ愛情を注いで娘を育ててきても、どれだけ娘のことを大切に思っていたとしても、たぶん父親には「本当に自分は娘を正しく愛することができていたのだろうか」という疑問があるのだと思う。
もっと素直な気持ちで接するべきだったんじゃないだろうか、照れくさがらずにもっとちゃんとかけてやるべきことばがあったんじゃないだろうか、もっとしてやれることがあったんじゃないだろうか。そんな、果てしない自問が、お父さんの「ごめん」ということばに込められているように思う。
あとがきで、河野さんはこう書いている。
こんな風にして、親から子への思いは繋がっていくのだと思った。
父と娘だけではない、母と息子の間にも、父と息子にも、母と娘にも。
河野さんとお父さんの、「語られなかったことば」によるダイアローグのような作品たちを読み終えて、改めて考えた。
ぼくは自分の娘にどんなことばを伝えるんだろうか、と。
まだ答えは見つからないけれど、ぼくも「あったかいどてら」みたいな、そんなことばを手渡すことができればいいなと思う。
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『お父さんがくれた半分と』河野宏子
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