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【読書コラム】エンデ『はてしない物語』考察~大人のための「魂の再生の物語」

ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』…
何十年ぶりに手に取っただろう。小学生の頃の宝物のひとつだった。

あの頃わたしは、日に2、3冊は読まずにいられない活字中毒少女で、あまり本ばかり読みすぎていたせいで、友達に「本」と呼ばれたこともある。
わりとぼうっとしたところがあったので、上履きのまま下校してきたり、ランドセルを学校に忘れて帰ってきたりは、もうしょっちゅうだった。
それでいて、本を読みながら歩いていても(歩いているときもずっと本を読んでいた)、階段も平気だったし、電柱にぶつかることもなければ、信号無視をすることもなかった。

どんな本だろうとなんでも好きだったし、ある本はなんでも読んだが、とりわけ好きでたまらなかったのが、ファンタジーや児童文学だった。
ドリトル先生や、ホビットや、エルマーや、チョコレート工場…
活字を追うだけで、現実には存在しない色とりどりの世界が、めくるめく想像力の中で、生き生きと動き出す。動物が話し、植物が話し、見たことのない種族の生き物が暮らし、友達になり、空を飛び、遊び、冒険する。見たこともない風景の国で、見たことのない時間が流れ、わたしはその中で笑い、踊り、飛び、食べ、泣き、息を吹き返した。
読む瞬間までは見たことがなかった世界のはずなのに、文字が目に入った瞬間、もうそこはずっと知っていた世界だった。

ヤハウェは「光あれ」とだけ言って世界を創ったというが、ファンタジーもまさに、言葉による世界の創造だ。

わたしは毎日毎日、本のページをめくっては、その豊かで鮮やかな世界に没入し、心ゆくまで彼らとともに生きることを愛した。


中学生になって、ぱったりとファンタジーを読まなくなった。
というか、本自体をほとんど読まなくなった。
勉強がよくできた私は、当たり前のように進学校に進んだのだが、そこからの生活はとても息苦しいものだった。
かなり自由で変わった学校だったが、それでもやはりものをいうのは成績だった。成績はあいかわらず良かったけれど、競争に勝つための暮らしは、「楽しい」という感覚とはかけはなれていた。

それでなのかは分からないが、わたしはいつの間にか、あの子どもらしい、毎日空気までぜんぶがきらきらと笑っているような世界から、遠ざかってしまった。

当時わたしを救ったのは、村上春樹の羊シリーズだったが、この話はいつかまたどこかで。


時を同じくして、色鮮やかだったわたしの世界は、モノクロに変わったと思う。


それから数十年かけて、わたしはまた子どもでいることを思い出した。
というよりも、ずっと大切に奥にしまってあった純粋な子どもの世界を、そのまま生きようと決めて、それを丁寧に選ぶようになった。
鮮やかな空気を吸い、心が笑うことを選び、感じたことを表に出す…
ただそれだけのシンプルなことが、モノクロの世界をまた、光で満たしはじめた。

わたしが絵を描くようになったのは、そんな流れの中で、絵や物語がふと心に立ち現れるようになったからなのだが、この話はまた、いつかどこかで。


そんな中。
ふと、『はてしない物語』が、ふたたびわたしを呼んだ。

ずっと再読したかったはずなのに、なぜかずっと手に取らずに生きてきた、『はてしない物語』。
昔読んだものは、何百冊もあった当時の蔵書と一緒に、父が近くの保育園に寄付してしまったので、手元にはもうない。だから読むのなら、もう一度買いなおさなければならならず、なんとなくきっかけがなかった…

というのは、きっとあとづけなのだろう。

本はずっと、わたしを待っていたのだ。
時が来るまで。
今ならそう思う。

カール・コンラート・コレアンダー古書店で、
この本が、バスチアンを待っていたように。

何日か前、都内でレストランを見つけなくてはいけなくなり、友人におすすめのレストランがないか聞いたとき、返ってきたのが「バルタザール」という答えだった。
なんて素敵な響きなんだろう、すごく聞き覚えがある…
ネットで調べてみると、『はてしない物語』の主人公のミドルネームだった。

バスチアン・バルタザール・ブックス。
その言葉を見たとたん、わたしはそのままネットで本を注文した。

届いた本を手に取っただけで、風に吹かれた海の表面のように、魂の奥が、細かな美しい波紋を広げながら、ざわあ、、、と揺れた。
赤い布張りの丁寧な製本。
赤と緑の二色で刷られたストーリー。
クリームホワイトの、すべすべした上質な紙。
裏表紙に刻印された、互いの尾をくわえた蛇の輪の紋章。

触れているだけでもう、魔法のアイテムを手にしている気がして、わくわくと抑えきれない喜びが、心の奥の忘れていた場所からあふれ出す。
久しぶりにもう一度手の中に戻ってきた本は、モノとして美しく、たしかに魔法がかかっている、と思わせるいずまいだった。

そして実際、エンデはこの本に本当に魔法をかけていたことを、わたしは数十年ぶりにもう一度思い出すことになる。
この美しい装丁は、エンデ本人が「日本語版がいちばんいい」と絶賛したらしいのだけど、読めばその理由がはっきりする。
この本は、モノとして美しいだけではない。装丁からしてもう、『はてしない物語』のしかけそのものが始まっているのだ。読む人に魔法をかけ、物語の内部に呼び込み、その人の人生を変えるしかけが。

だからぜひともこの本は、ハードカバーの、この赤い布張りの装丁で読まなくてはいけない。そうでないと、本当の魔法が発動しないから。

そしてわたしは、大人になってはじめて理解できる、この物語の魔法の新しい意味をもうひとつ、知ることになる。

長い人生のどこかで、子どもの心を置き去りにしてきた大人が、もう一度魂の喜びをとりもどす「再生の物語」という意味を。


物語は三層で進む。
①ファンタージェン
②ファンタージェンを読んでいる主人公バスチアンの世界
③ファンタージェンを読んでいるバスチアンの世界の物語を読んでいるわたしの世界
という三層だ。

この三つの異なる世界が、ひとつの本を通して接続される。
それは、この本が『はてしない物語』という名の赤い本であることそのものによる。

ファンタージェンの中で語られ、バスチアンが手にし、そして今それを読んでいるわたしが手にしている本が、すべて同じ「あかがね色の絹貼りの、蛇の紋章がある『はてしない物語』という本」であることによって、自分もまた実際にバスチアンと同じようにファンタージェンに呼ばれ、入り込み、冒険する主体になる、という魔法が発動するのだ。

思想家としても知られたエンデの、メタ構造を駆使したみごとなストーリーテリングによって、わたしたちは物語の内側にとりこまれる。それはまるで丁寧に作られたミルフィーユのように、同じ物語=現実世界を織りなす層となって、重ねられてゆく。


一層目の舞台、ファンタージェンは、その名の通り、人間が子どもの頃心の内側にもっていた、ファンタジーの世界なのだということが、読むにつれ分かっていく。
そしてそこを統べる「永遠の幼ごころの君」とは、誰もがかつて生きた幼ごころ、無邪気な子どもの自分なのだ、ということも。


ファンタージェンは「虚無」の浸食によって危機に瀕している。
幼ごころの君は重い病に伏しており、虚無の浸食はそれのせいだと言われる。もしも幼ごころの君が死んでしまうと、ファンタージェンも消えてしまうのだという。

「虚無」はブラックホールのようにあらがいがたい力で、加速度的にファンタジーをのみこんでゆく。
ファンタージェンの住人たちは、「希望」をうしなうと、あらがうすべもなく虚無に飲み込まれるのだ、と言われる。
そして、虚無に飲み込まれると、彼らは「人間」になるのだという。
そして、人間になると、ファンタージェンは「いつわり」となり、人の頭の中の妄想になる。
だから人間はファンタージェンとそこから来るものを憎み、怖れる…


こうした記述のどれもが、人が、「幼ごころ」という純粋さと、そこから生まれる豊かな想像の世界を、成長するにつれ「妄想」として否定し、忘れ、内なる喜びの世界を喪ってゆくことを表している。


だから、幼ごころの君は、新しい名によって再生されることを必要とするのだ。かつて自分にいのちを与え、ファンタージェンを存在に至らしめた、「子ども」という人間の再訪によって。


それが、バスチアンだ。
だからバスチアンは、本の中からほかでもなく彼を名指し、呼ぶ声に応え、ついにファンタージェンの中に入り込む。

でも本当は、呼ばれているのは、わたしたち自身だ。
「ファンタージェンの物語に入り込んだバスチアンの物語」を読むわたしたちもまた、ファンタージェンに呼ばれている。
なぜって、この手の中にあるこの本が、『はてしない物語』そのものだから…これがエンデのしかけだ。


エンデは生涯、ファンタジーというものが「もうひとつのリアリティ」であることを語り続けた。
証明こそできないけれど、たしかに存在するものなのだと。
だから、ファンタージェンに行き、ファンタージェンにふたたび命を与えることは、彼にとって世界を救うことでもあっただろう。

ファンタジー界と人間界、どちらが消えても、もうひとつは消える。
世界はそうやって成り立っている。


バスチアンは物語に飛び込み、幼ごころの君に名を与え、ファンタージェンを再生させる。
現実界で、さえないいじめられっ子だったバスチアンは、「救い主」として崇められ、美しく生まれ変わり、蛇の紋章のメダル「アウリン」の力によって、ありとあらゆる望みを瞬時に叶えることができるようになる。


ところが、物語はここでは終わらない。
(映画「ネバー・エンディング・ストーリー」はここで終わっているうえに、ラストシーンが「いじめっ子に仕返しをして終わる」というものだったので、エンデは映画を訴え、クレジットから自分の名前を外させている)

実はアウリンの力には、落とし穴がある。
ひとつ願いを叶えるたびに、人間だったころの記憶をひとつ、なくしていくのだ。

記憶をすべてなくすと、ファンタージェンから帰れなくなるが、バスチアンはいっこうに帰りたいと思わない。
それを心配した親友アトレーユは、バスチアンにアウリンを外させようとするが、バスチアンはしだいに、アトレーユが自分を見下すためにそうしているのだと思いこんでゆく。


アウリンに刻印された、「汝の欲することをなせ」という言葉。
これがいったい何を意味するのかが、物語の後半のテーマとなる。


「なんでも叶う」という喜びが、いつのまにか暴走し、バスチアンは望みを叶えれば叶えるほど満たされず、いつしか無限に膨れ上がる欲望を止められなくなってしまう。そうしてついに、「帝王になる」という野望をもつが、それが打ち砕かれ、アトレーユまでも刃にかけたあと、ぼろぼろになったバスチアンがたどり着いたのは、「もと帝王たち」のたまり場だった。
自分が分からなくなり、狂気の様子を呈する彼らを見てはじめて、バスチアンは、アトレーユのまごころを知る。


ここで描かれているのは、エゴと望みの違いだ。

「汝の欲することをなせ」と言われ、あらゆることが叶う力を与えられたとき、問われてくるもの。

それは、「汝のまことの意志はなにか」ということだ。

エゴイスティックな「欲望」と、まことの意志による「望み」の違いは、わかるようで難しい。どちらも「欲すること」にかわりはない。
けれど、人は、「欲望」によって自分をうしない、「望み」を生きることによって命を得る。

人は不安と欠乏をもつ生き物だ。それはどこか、しかたのないことでもある。けれど、不安と欠乏に根差した「欲望」に手綱を握らせてしまうと、あらゆる望みを叶えながらも、空虚な火の車のように、ただ内なる喜びを忘れ、欲望に主導権を握られて、自分の存在を忘れてしまう。
それが「かつて帝王だった者たち」の姿だ。

だから、その「欲すること」が、内なる喜びから発する「まことの意志」であるかどうか。
それが、自分を失い、狂気の袋小路に彷徨うか、人生を取り戻し、自分を生きるかの、分かれ目となる。

でも、ときには、自分を見失ってしまうことすら、けして悪いことではないのだ。
望みのなかの望みを自分で見つける旅の途中で、あちらこちらに揺らぐこともまた、必要なのだから。
真ん中を歩くために、たくさんの寄り道をする、それが人間なのだろう。体験しないと、人はそれを「わかる」ことはできない。


バスチアンは、残りわずかな記憶を大事に使いながら、ファンタージェンからの唯一の出口とされる「生命の水」の泉へと向かう。


その途上で出会ったアイゥオーラおばさまは、バスチアンにこう声をかける。

「あなたは望みの道を歩いてきたの。この道は、けっしてまっすぐではないのよ。あなたも大きなまわり道をしたけれど、でもそれがあなたの道だったの。…生命の水の泉へと通じる道なら、どれも、結局は正しい道だったのよ」


どんな道だろうとも、まことの望みへと至る道であれば、それは結局は正しい道なのだ。


そう言われて、バスチアンは号泣する。

幼かった小学生の頃のわたしには、おそらくこの後半部分の物語がなにを意味しているのか、はっきり理解できてはいなかっただろう。
なぜならそれは、まことの道を見失い、もういちどそれを自分の意志で望み、どれほど回り道をしようとも、それを見つけるまで歩き続けた者にしか、理解できない物語だからだ。

だからこそ思う。
少女だったあの日、この本を手に取り、魅了され、のめりこむように読んだ、あの瞬間に、今日この日、本がもういちどわたしを呼んでくれるこの瞬間が、準備されたのだと。

あるいはむしろ、この今のこの日、わたしが大人になってこの本を読んだことによって、かつての少女だったわたしと本の、あの出会いが準備されたのかもしれない。

時間は同時に存在する、過去も、現在も、未来も。ユングがひっそりと、私文書だけに書き残したように。

この先に、いちど自分を失い、それでも生命の水を求めて、たくさんのまちがいをおかしながらも、必ずまことの望みにたどり着く、この本はその瞬間、もういちどわたしに出会うために、存在した。いまいちど、そのすべてを語りなおすものとして、わたしの目の前にふたたび現れるために。

ファンタージェンの世界では、それを見るまでは存在しない。
でも見た瞬間から、それはずっと昔からそこに存在する。

それはまるで、量子力学の世界だ。


バスチアンのまことの望みは、「愛したい」ということだった。
ありのままの自分を、何者でもない自分を愛すること。
そして、愛する人のもとに帰ること。

生命の水まであと少し、というところで、最後の記憶を使い果たしてしまい、自分の名前すら忘れたバスチアンを救いに来たのは、アトレーユだった。
ひとは、望みの道を見つけるためには、ひとりで歩かねばならないけれど、その道は必ず、愛し支えてくれるものによって可能になるのだろう。
それはまるで矛盾のように聞こえるけれど、けして矛盾ではなく、美しい真実なのだと思う。


生命の水の泉に入り、ファンタージェンで得たすべてのものを自ら失ったバスチアンは、ふたたび、「あるがままの自分」として再生する。

「生きる悦び、自分自身であることの悦び。自分がだれか、自分の世界がどこなのか、バスチアンには、今ふたたびわかった。新たな誕生だった。今は、あるがままの自分でありたいと思った。…今こそ、バスチアンに分かった。世の中には悦びの形は何前何万とあるけれども、それはみな、結局のところたった一つ、愛することができるという悦びなのだと。愛することと悦び、この二つは一つ、同じものなのだった」


生きることは、たくさんの道を通りながら、自分を見つけ、自分を愛し、自分を受け入れ、自分を知り、そしてそれをおもてに表して生きることだ。

じぶんの心の奥に永遠に息づく「幼ごころの君」に出会い、内なるファンタージェンを取り戻すこと。
そして、人間として、ありのままの自分で、「愛の望み」をもって生きること。
ファンタジーと現実、このふたつを行き来し、どちらの世界も純粋に豊かにしあうことが、悦びを生きるということだ。
もっと言うなれば、それをひとつのものとして生きることが。


大人がもういちど子どもになり、
大人としても、成熟すること。
それが、自分にとっては、まことの望みを生きることであり、
自分ではない誰かにもまた、生命の水をもたらすことになる。


エンデは、
そのような大人に向けて、
いつかもう一度この物語に出会う、いつか大人になる子どもに向けて、
この物語をうみだしたのではないかと思う。

もちろん、彼のエゴではなく、
大いなる「まことの意志」が、彼を導くことによって。


人間の世界に帰ってきたバスチアンに、本屋の主人、コリアンダー氏が言う。

「ファンタージェンへの入り口はいくらもあるんだよ。…それに気が付かない人が多いんだ。つまり、そういう本を手にして読む人しだいなんだ。…それに、ファンタージェンにいってもどってくるのは、本でだけじゃなくて、もっとほかのことでもできるんだ」

コリアンダー氏もかつて、ファンタージェンに行き、幼ごころの君に名をさずけたことがあった。
 

もう一度わたしの手の中に戻ってきた、大切な魔法の書を抱きしめながら、この本、もう一度自分で買ったこの本は、二度と手放さない、と思う。
ごつごつした本の角、ずっしりとした快い重さ。
ざらざらした、つやのある深い赤の布が貼られた表紙の、刻印の凹凸に触れながら、ありがとう、と、幸福な溜息をつく。
そして思う。
魔法は実在すると。

ファンタージェンを通じて、ひとが自分のまことの意志、つまり愛に至ること。
それが魔法だ。
子どもの世界をとりもどし、その純粋な世界から生命の水をくみあげ、その生命がもたらす愛によって、本質の自分に至ること。
それが、魔法なのだ。

エンデはその魔法を本にかけ、読む者に再生と生命をもたらす。

ならば、と思う。
わたしは、わたしの魔法をみつけ、使おう。
エンデにもたらされた生命の水を、わたしは次の人々に渡そう。
わたしがいつも、ただわたしであることによって、誰かの魂を再生させるための、生命の水をもたらそう。

それをすることが、わたしにとってはいつも、わたし自身がファンタージェンにもどって、生命の水を飲むことなのだろう。

そうやって、はてしない物語は、何層にも重なりながら、はてしなく受け継がれてゆくのだろう。













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