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川上弘美「物語が、始まる」は何故グッとくるのか? 第三夜
全7回に渡って川上弘美「物語が、始まる」の魅力を紹介します。
↓ 前回
第三夜 「物語が、始まる」ってどんな話?(後半)
さっそくあらすじの続きを追ってまいりましょう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
とうとう“私”と本城さんは破局する。
「もう、僕らは駄目かしらね」本城さんが言った。
(略)
「駄目なら駄目でいいんだけれど、それが雛型のせいだというのが、僕はくやしいねえ」本城さんは、先程よりももっとゆったりとした口調で言った。
「ごめんなさい」私はうつむいて言った。
「肯定しないでほしかったなあ」少し、笑う。
別れ際、三郎について「あまり深入りしすぎないように。なんといっても人間じゃないものなんだから」と本城さんは“私”に忠告する。
そして、三郎は外で働きはじめるようになる。
コンビニエンスストアの店員になった。三郎が、である。
(略)
毎月二十日になると、三郎は給料を私に渡すようになった。
「ねえねえ、夜遊びしようよ」三郎は言うのだ。
(略)
ただし、いまだにセックスは行われなかった。そして、その状態に私はなじみつつあった。セックスなどというものは、ただの癖のものなのかもしれなかった。
ある日、三郎の帰りが遅い夜があった。
三郎の身に何か起きたのではないかと心配する“私”。
すると……
終電で、三郎は帰ってきた。やっとのことでシャワーだけは浴び、うつらうつらしていた私は、ドアの開く音に驚いてぴょんと飛び起きた。
「あ、おかえり」咄嗟のことで、愛想のいい声が出た。
「ゆき子、やったよ」三郎は、頬を上気させながら叫んだ。ドアをばたんと閉め、靴を空中に向かって脱ぎ捨て、ずいずいと私のところにやってくる。
「ゆき子、今日セックスができたよ」
「えっ」
何を言っているのか、一瞬わからなかった。
三郎曰く、「先日うどん屋でたまたま隣りあった女の子」からコンビニに電話があり、食事のあとホテルに誘われセックスを何回かした、とのことだった。
この時点でもまだ“私”は三郎とセックスをしていなかった。
長い間声も出なかったが、やっとのことで私は聞いた。
「三郎、セックスをしたかったの?」
「ああ、もちろんだよ、ゆき子とセックスしたくてしょうがなかったよ」
「じゃあどうして」
「できなかったじゃない」
「でも、今日はできたんでしょ」
「うん、だから安心したよ、能力がないんだと思ってたから、ああよかった」
「三郎」
と、言いかけて、黙った。今にも私を押し倒そうとせんばかりに浮き浮きしている三郎を目の前にして、私は何も言えないのであった。
「三郎は、馬鹿なのかもしれない」と落ち込む“私”。
とりあえず“私”は「他の人とセックスをしてほしくない」と三郎に伝え、その日は終わった。
翌日、熱が38度ほど出て“私”は会社を休む。
夜になって熱が下がると、三郎は私の布団に入ってきた。そして、ごく穏当な手順で私に愛撫を加えた。昨日の女の子から教わったことをそっくりそのまま実行しているのであるという疑いはおおいにあったが、考えないようにした。
ごく穏当に過程は進み、ごく穏当に事は始まるかのように思われたが、しばらくすると三郎は悲しそうに言ったのだ。
「だめだ、できない」
事を始めようとしても、いざ“私”を目の前にすると不能になってしまう三郎。
二人はその原因を話し合う。
「一番簡単なのは、ゆき子が僕の母親だっていう解釈でしょ」
一ヵ月がたったのであった。あらゆる試みはことごとく失敗した。
(略)
「ほんとに私は三郎の母親なの?」
三郎は考えている。しばらく考えてから言った。
「違う、そういう関係じゃないと、思うよ」最後の方は少し自信なさげである。
私と三郎は、腕を広げ、お互いの肩にそっと回し、優しく抱きあった。
「もういいのよ」
「でも」
「これだけこの件に集中したんだから、もうあきらめましょう」
「集中したねえ」
「集中したわよ、ほんと」
私たちは顔を見合わせて笑った。
それから、また力を込めて抱きあった。ちょうど、ロシアの政治家同士が抱擁しあうような感じで。
ただ、セックスは出来ずとも、二人は満ち足りた感覚を覚える。
「まだ、始まったばかりなのよ、私たちは」
「でも、時間は無限にはないよ」
「それはそうだけれど」
私は三郎の頭を、そっと撫でた。三郎は、頭を私の胸に当て、私の鼓動を聞いた。そうやっていると、三郎と私が一つに融合するような錯覚にとらわれた。もちろんそれはただの錯覚なのであったが、たいそう甘い錯覚では、あった。
しかしそんな矢先、三郎にある決定的な変化が訪れる。
仕事から帰ると三郎がいた。「ああ疲れた」などと言って、ビールを飲んでいる。
胸騒ぎがした。
まじまじと三郎を見た。白髪が、数本ある。いつの間にできたのだろう。
(略)私は身震いした。
「どうしたの、ゆき子」三郎が私の肩を叩く。
あまりに唐突に思えた。しかし、こうなることが最初からわかっていたような気もした。
「ゆき子」もう一度三郎が言った。「泣いているよ、どうしたの」
気がつくと、私は嗚咽をもらしていた。
三郎が、古くなり始めているのだった。
三郎の老化は、あれよあれよという間に進んだ。一日に一年分とちょっと老化する。一週間たつと、約十歳年をとっている、という寸法である。
「ああ、ゆき子、僕たちは結局添いとげるわけだねえ」三郎は、笑いながら言った。
「そうねえ」
「実は、僕は自分がいつかゆき子から離れてふいとどこかに出て行ってしまうような予感がしていたんだけれど」三郎は、もう一度笑った。
(略)
「セックスできなかったのがかえすがえすも残念だけどさ」
(略)
結局、三郎は紙おむつを五枚残して、三郎ではないものに戻った。雛型なので、死ぬわけではない。最後は、口をきかなくなり、ほどなく体が縮みはじめ、一時間くらいで最初の一メートルほどの原始雛型に戻ったのである。
雛型に戻った三郎のからだを、私はきれいに拭いてやった。その肌は青白く、髪はふさふさとしていた。そして、腕には「どうぞ持っていってください、きけんはないです」と、かすれたマジックのようなもので書かれてあった。
そういうわけで、三郎はいなくなった。
雛型に戻った三郎を、私は一ヵ月ほど持っていたが、ある日突然思いついて、遠くの公園に捨てに行った。持っているのがつらかったということもあるが、もしかしたら誰かに拾われて再生するかもしれないとも思ったからである。
部屋の中の三郎関係のものをすっかり片付け、ついでに模様替えをし終わると、会社で辞令が下った。昇進することになったのである。と同時に、隣の県の営業所に移ることになったのだ。
部屋を引き払う前に、雛型を捨てた公園に行ってみた。雛型の姿はもちろんなかった。近所を少し歩き回ってみたが、雛型が成長したらしい姿も見かけなかった。再生したとすると、ちょうど中学生くらいの大きさになっているはずだったが。
(略)
三郎の、ずっしりとした体感を鮮明に思い出し、少しの間くらくらとしたが、上を向くと昼の月が出ていて、その月を見ているうちに、自分が三郎を忘れはじめていることがわかってきた。
これが、生きながらえるということなのかもしれない、と思いながら、もう一度三郎のことを思い出そうとしたが、すでに三郎は、物語の中のものになってしまっているのであった。
これが、「物語が、始まる」という話の全貌です。
引用と言いつつ最後の方はほぼそのまま本編の紹介となってしまいましたが、重要と思われる箇所が多く、こういう形になってしまいました。
どのあたりが「グッとくる」ポイントなのかを意識しつつ、次回からこの物語を読み解いていきます。
それではまた明日。
↓ 第四夜