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川上弘美「物語が、始まる」は何故グッとくるのか? 第六夜
全7回に渡って川上弘美「物語が、始まる」の魅力を紹介します。
↓ 前回
第六夜 「物語が、始まる」
前にも少し触れましたが、本作「物語が、始まる」は、川上弘美の第一作品集『物語が、始まる』(1996)の表題作です。
この作品集には、表題作以外には「トカゲ」「婆」「墓を探す」という三つの短篇が収録されています。
「トカゲ」には“座敷トカゲ”という不気味で巨大なトカゲが出てきます。
「婆」には、主人公に「私は婆ですよ」と呼びかける、謎に満ちた“婆”が登場します。
「墓を探す」は、そのタイトル通りの内容です。
文庫本には初出誌の情報が載っていないため正確な時期は不明ですが、(作品集として刊行されている以上)これらの短篇が大体同じ時期に書かれたことは間違いありません。
三つの短篇に関しては実にストレートというか、その作品において主題となっている生き物・人・出来事がタイトルとして付けられています。
その文脈からしても「物語が、始まる」の立ち位置は特別です。
三つの短篇のタイトルの付け方に倣うならば、本来この短篇は「雛型」と名付けられるべきだったのではないでしょうか。
それを何故、わざわざ統一感を崩してまで「物語が、始まる」としたのか。
わたしとしては、このタイトルの付け方に川上の“物語”への特別な思い入れや、独自の物語世界を構築していかんとする一種の気概を読み取るのです。
本作は、三郎と“私”の二人が何度もこの世界を繰り返しているのではないか、という予感で満ちています。
たとえば、三郎は“私”に「ゆき子さんの前世はなんだったのですか」と急に聞いてきたりします(P23)。
他にも……
・【私】「三郎の言動には、いつも既視感がある。」(P31)
・【私】「三郎に抱きしめられながら、私はいつも感じる既視感を、さらに強く感じる。」(P49)
・【私】「なつかしい原始の記憶」(P49)
・(※三郎が古くなり始めていることに対して)【私】「こうなることが最初からわかっていたような気もした。」(P70)
・【三郎】「実は、僕は自分がいつかゆき子から離れてふいとどこかに出て行ってしまうような予感がしていた」(P71)
・【私】「絶対にいつか三郎は出て行ってしまうと思ってた」(P71)
二人は現在の世界を繰り返していることの自覚は無いようですが、それは無理もありません。
なんせ、物語が終わるたびに、毎回記憶や関係はリセットされます。
それでも何度も何度も物語の再生を繰り返している内に、消える筈の記憶の残滓が堆積していき、それが「既視感」や「予感」という言葉に取って代わられているのでしょう。
美術館で形成された瞳の合わせ鏡のように、その無限の営みのなかで、二人の悲恋は永遠に繰り返されるのです。
ただ、物語というのはなにも“私”だけのものではありません。
本城さんとの久々の再会のあと、ひとりで喫茶店を出た“私”はこんな場面に遭遇します。
暮れきったところで、三郎とそっくりなものとすれ違った。しかし、それは三郎ではなかった。三郎にそっくりのものは、ちらと私を見て、そのまま去った。
三郎がいくら「若い男」に成長したとしても、“私”が頻繁に彼の中に雛型時代の面影を見出すように、三郎は特徴的な存在です。「三郎とそっくりなもの」が当の三郎本人ではないというのはなかなか考えられないことです。
しかし、物語というものをよくよく考えてみると、それはどこにでも転がっていて、拾おうという意志があれば拾えるものです。
物語という事象の全てを、決して三郎ひとりだけが担っているわけではありません。
そうであれば、“雛型”の形をした物語は他にも存在すると考えた方が自然です。
その「三郎とそっくりなもの」も昔は雛型で、きっと“私”以外の誰か(別の物語の主人公)が拾ったのでしょう。
その、別の誰かが所有する“物語”に“私”がばったり遭遇したのだとわたしは考えます。
あるいは、“私”のことを“私”と認識しない「三郎とそっくりなもの」は、近い内に訪れる、人間の記憶を失っていく“三郎”の将来を予告する存在とも言えます。それは、三郎が雛型に戻ることが「最初からわかっていたような気」がしていた“私”の生み出した幻視であるのかもしれません。
わたしは先ほどこの物語を「悲恋」と表現しましたが、果たしてそうでしょうか。
物語の最後に三郎はただの雛型へと戻り、“私”との交流が出来なくなり、実質的に永遠の別れを迎えます。確かに一般的に見れば、これは悲劇かもしれません。
でも本当に、この物語は悲劇なのでしょうか。
だって、読者がページをめくれば、この物語は再生するのです。
最後は悲しい結末かもしれません。
でも、この世に本作の読者がいる限り、“私”と三郎の他愛のない会話や、真剣なやり取りが、美術館でのこの世のものとは思えない愛の営みが、二人の楽しかった思い出と記憶が、もう一度眼前に立ち現れてくるのです。
究極的な話、どちらを取るかということなのだと思います。
一つは、“物語”になることを拒み、最後までそのまま二人で幸せに暮らすか。
もう一つは、永遠の別れを迎えたとしても、“物語”として読み継がれることを選ぶか。
本作は、結果的に後者の道を選びました。
ただ誤解しないでほしいのは、わたしは「ハッピーエンドじゃない話は“物語”なんかではない」と言っているわけではありません。ハッピーエンドの名作は当然ゴロゴロありますし、世の中の割合でも一番ポピュラーな終わり方でしょう。ハッピーエンドの物語で好きな作品は、わたしにもあります。
しかし、こと本作に関しては、「三郎が三郎のままで生きる」のと「三郎が雛型に戻ってしまう」のとでは、どちらが印象に残る終わり方でしょうか。
少なくともわたしは、後者の終わり方だったからこそ、在りし日の二人を偲びたくなり、何度もこの物語を手に取ることになりました。
そして、ただ単純に悲劇的な結末というわけではありません。一回終わることが、次の物語の再生の円環にジャンプするためのスイッチとなっています。この仕掛けが、本作の巧みなところです。
最後に三郎は雛型に戻り、物語が終わってしまいました。
でも、あなたが(もしくはあなたじゃない他の読者が)この物語を希求する限り、三郎たちはもう一度動き出します。文字通り「物語が、始まる」のです。
その営みが読者たちによって受け継がれ、無限に繰り返されるのであれば、実質的に三郎たちは永遠の恋を得たと言えるのではないでしょうか。
物語はその特性として「繰り返し語られることを希求する」と前に書きました。
今から述べるのは物語の特徴というよりも、わたしのただの実感なのですが、物語は痛切なものを含んでいると、物語として成立しやすい、という部分があると思います。
たとえば、先日「ルックバック」を読み解く記事を書きましたが、「ルックバック」でも作中において、ある悲劇的な事件が発生します。
少しイヤなことを考えますが、仮にこの事件が発生せず、主人公の藤野と京本は互いに切磋琢磨して幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし、という話だったとしたら、ここまで話題の作品になっていたでしょうか。
作者の藤本タツキは実力のある書き手なので、その方面でも充分に面白い作品をきっと提示してくることでしょう。
しかし、元の「ルックバック」が有していた、見る者に突然ナイフを突きつけてくるようなあの差し迫った感じは、あの事件のエピソード無しでは再現不可能かと思います。
「ルックバック」のあの展開は、実際にあった痛ましい事件から着想を得ているという説があります。おそらく、きっとそうなのでしょう。もちろん、現実世界におけるそのような事件の発生を、わたしは肯定するものではありません。
しかし、ここが大事なところですが、「ルックバック」という物語世界においては、あのような痛切な展開があったからこそ、結果的に多大なるインパクトと共に読者・観客の記憶に残る作品になったとも言えます。
藤野と京本は、永遠に引き裂かれてしまいました。
だからこそ、もう修復不可能であるが故に、二人のさまざまな感情が渦巻いた日々の記憶は燦然と輝きを放ちます。
この現実世界に縛り付けられている我々は、どれだけ「あんときマジでミスったな~」と思っても人生を巻き戻すことは出来ません。自身に起きる全ての出来事は、そのままそっくり受け入れることを求められます。
でも、目の前にある物語は、最初のページをめくれば、いつだって、どんな時でも再生できるのです。その無限の営みのなかで、藤野と京本もまた、永遠の命を得ます。
ある日、雛型は「どうぞ持っていってください、きけんはないです」と“私”の前に現れました。
全ての物語は、読者にあまねく呼びかけます。
私を再生しなさい、と。
次回最終夜。それではまた明日。
↓ 最終夜