フォリアドゥれない『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』【映画感想文】
映画『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』を今週見てきました。
耳にするのは良くない評判ばかりでしたが、「とは言えあの『ジョーカー』の続編ということであれば、やっぱ見ないわけにはいかないでしょう!」と映画館に行きました。
そしてどうだったか。
「最悪」とまでは言わないけど、なかなか「う~~ん……」な出来でした。
前作『ジョーカー』は世界的に大ヒット。
興行収入はR指定映画として初めて10億ドル超え。日本だけでも50億円稼いだそうな。
公開当時私も映画館で見ましたが、「面白い!」と思いました。
ちなみに公開は2019年。あれからもう5年も経っていたということが驚きだよ……。
せいぜい2~3年くらいかと思っていました。
「新型コロナ」の発生が2020年なので、その意味でも隔世の感がありますね。
本作がどういうあらすじだったとかの詳細については他のところでもさんざん紹介されていると思うのでそちらに譲ります!
とりあえずスーパーざっくり言うと、「すっかりしょぼくれきった凶悪犯罪者のおじさん(アーサー・フレック a.k.a ジョーカー)が熱狂的な女性ファンからおだて上げられ『よっしゃ俺ももうひと花咲かせたるで!』とハッスルしつつ基本は刑務所と裁判所を往復するだけの単調な日々、そしてたまに歌う」という内容です。
そう、なんか単調なんですよね。
そして陰惨。
今回、主人公のアーサーは肉体・精神ともにボコボコにやられまくります。
いいところなし。一瞬浮上したとしてもすぐにまた落とされる。落ちっぱなし。
前作の反響があまりにも大きく、作り手たちの想定をはるかに超えてジョーカーが熱狂的に観客に受け入れられ、中にはジョーカーの紛争をして犯罪をやっちゃう模倣犯まで現れてしまった。本作の冒頭のアニメのように「ジョーカー像」がまさに一人歩きする状況だったわけですけども。
作り手たちはその反省を踏まえて「悪のカリスマなんてのは存在せず、その正体はただのしょぼくれた中年男だ」ということを強調したかったのかもしれませんが、それは「ジョーカー」というブランドに対して失礼ではないでしょうか?
ジョーカーはDCコミックスが誇る、狂気に満ちたスーパーヴィランです。
私はDCコミックスやジョーカーの熱心なファンではないけれど、前提としてアメコミの「偉大なキャラクター」に対するリスペクトが足りていないように思えるのがどうも気にかかった。
アーサーは「自分はジョーカーではない」と告白しますが、それならば本作のタイトルはシンプルに「アーサー」とすべきでしょう。
そしたらタイトルの後ろに「フォリ・ア・ドゥ」なる聞きなれない単語がくっついてくる必要もなかったのです。
ところで「フォリ・ア・ドゥ」というのは、これはフランス語で「二人狂い」を意味し、精神医学の専門用語で「感応精神病」「二人組精神病」という病名を指すとのことです。
当代きっての最強の映画評論家・ライムスター宇多丸師匠は日本版の副題として『ジョーカー:共同幻想』というのはどうか、という提案をされていましたが、「二人狂い」のニュアンスを加味するならば『共依存』というのもいかがでしょうか、という私からの提案です。
二人狂いにおけるジョーカーの相手役、リー・クインゼルを演じるのがレディー・ガガ。
ガガは実に達者である。
でも、うまいはうまいんだけど、想定を超えてこないうまさって感じ。
「リー・クインゼル」というよりかはいつもの「ガガ」だった。
ちゃんと魅力的ではあるのだが、我が国におけるキムタクと同じで、ガガは「ガガ」役しか出来ない気がします。
今回記事を書くにあたってYouTubeで本作の考察動画を見漁っていたときにどこかのコメント欄で「ガガはいわばカレーみたいなもので、うまいんだけどみんなカレー味にしてしまう」(意訳)的なことが書かれてあって、映画作品におけるガガ評としてピカイチだと思いました。
この作品はミュージカル映画でもあります。
本作は主人公・アーサーが刑務所と裁判所を往復するだけで画ヅラが単調な分、そのテコ入れのせいか「アーサーの妄想」の具現化として頻繁にミュージカルのシーンが挿入されます。
メインのホアキン・フェニックスはどっぷり「ジョーカー」役に浸かっていますが、相手役がただの「ガガ」なのでこの時点で虚構レベルにおける「レイヤー違い」が発生してしまっており、全体的にどうもチグハグしています。
そこんとこの共感が無い状態なので、観客が「二人狂い」の世界になかなか没入しづらい。
全然フォリアドゥれない。一向にフォリアドゥらせてくれない。
そして肝心のミュージカルもなんかもったりしているというか、凡庸な印象を免れません。
普段のアーサーがとにかく悲惨にボッコボコにやられる分、画面の華やかさはミュージカル要素で補填したかったのかもしれませんが、残念ながらミュージカルパートはグッとくるものが無くおしなべて及第点といった感じで、映画における“マジック”を起こしていません。そこははっきり作り手たちの誤算だったでしょう。
138分のもったりしたミュージカル映画。うーん胃が重い、尻が痛い。
唯一の逃げ場である妄想=ミュージカルすらもパッとしないのであれば、アーサーはますます浮かばれないではないですか。
劇中歌「ザッツ・エンタテインメント」は「この世はなんでもエンタテインメント」と高らかに謳う歌詞ですが、それすらも作り手たちの言い訳に聞こえてしまいます。
「そもそもこの映画自体がエンタテイメントになり得ていないのではないか?」と皮肉の一つも言いたくなりますわよ。
本作は、前作に心酔したファンたちに冷や水をぶっかけるのが目的だったらしいですが、それを『ジョーカー』の看板でわざわざやるのはお門違いという話です。
ただ、「ホームランか、三振か」という極端な結果をもたらす点においては、それはそれで『ジョーカー』っぽい気もします。
結局作り手も観客も、ジョーカーというスーパーヴィランに等しく翻弄されたという意味では同じ仲間です。仲良くしようではありませんか。
そして今回のジョーカーには「バットマンがいないこと」の不幸があります。
やっぱりジョーカーというキャラクターは、バットマンがいないことには体がやる気と狂気で満ちてこないのでしょう。
影は、光あってこその影です。影だけでは、成り立ちません。
もしバットマンがいたのなら、アーサー=ジョーカーは最後あんなことにはなっていなかったと私は思うのです。