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「今のことしか書かないで」と彼女は告げた【大槻ケンヂ新刊書評】



■「絶筆宣言」

 そのエッセイは、こんな書き出しで始まる。

 かつて僕は小説を書いていた。20代から30代にかけてだ。出来不出来は置いといて、長編七~八冊、短編集三冊を世に送り出した。でも40代になって、パッタリと書くのをやめてしまった。

 これを書いたのは大槻ケンヂ。愛称「オーケン」。
 ロックバンド「筋肉少女帯」「特撮」のボーカリストとしての活動のみならず、前述の通り小説家としても活躍している。

 大槻さんが本を書きまくっていた時期は私の学生時代とすっぽり重なり、無限とも思えるヒマを持て余す身分にとって、大槻さんのエッセイ・小説は最高のごちそうだった。面白くて面白くて、むしゃぶりつくように読んだ。
 私がnoteでぎこちないなりにも文章を書くようになったのも、文章における芸風とかその他もろもろ含め、大槻さんからは多大な影響を受けている。

 冒頭に引用したエッセイは、「本の雑誌」2021年9月号に書かれたものだ。
 ざっくり要約すると「もう小説を書くのはコリゴリ」という内容だった。
 筋肉少女帯の再結成を機に小説執筆をパッタリ止めてみたら、あらゆる体調不良・不定愁訴が「夢のように消え」、しかも「頭髪はモサモサ濃く」なって悩みの薄毛まで解消されたという。
 終わりには「結局『向いてなかったのかな』と思う。才能、気力、体力ともに足りなかった」とまで書いてあった。
 当時、書店で「本の雑誌」を立ち読みしていた私は、それこそマンガのように「ガーン!」となった。立ち読みの足が震えた。「あれ、震度3?」地面が揺らいでいると錯覚するほどの衝撃だった。

 私は今まで大槻さんの小説を読み、夢のような時間を過ごしてきた。
 キラリと光る一節を見つけては「こんな天才は二度とこの世に現れまい」と心酔し、何度も読み返したものだ。
 そんな「小説の天才」が、事実上の絶筆宣言をしているのだ。

 そこには二つの絶望があった。
 私からすれば「小説を書くために生まれてきたような存在」である大槻さんにとっても、小説執筆という行為は創作者にそこまでの苦しみ・ストレスを与えるものなのか、という絶望がひとつ。

 もうひとつの絶望。
 これは私の混乱も含まれており真意は分からないにせよ、『向いてなかったのかな』という述懐は、大槻さんが今まで手掛けたきた自身の小説を『失敗作である』と捉えている風に見えてしまった。それらの作品を愛してきた自分ごと、存在を否定された気持になった。

 その後も私は大槻さんの連載エッセイ目当てに「本の雑誌」を立ち読みし続けたが(買えよ)、「もうこの人は小説を書かないんだよなぁ」というモヤモヤが心の片隅にずっと引っかかっていた。
 しかし、本稿を書くために「本の雑誌」当該号を買い求めたところ、同じエッセイに次の一節があったことを私はすっかり忘れていたのである。

でもいつかまたチャレンジしてみたい気もする。

■「今のことしか書かないで」

 オーケン、カムバック。
 『今のことしか書かないで』という新作を引っ提げて、約10年ぶりに小説家・大槻ケンヂが帰ってきた。オーケンは「チャレンジ」の約束を守るオトコだった。

 ある日、これまたオーケン好きの友人から「ぴあでオーケンのヤバい新連載が始まってる!」という連絡が来た。
 リンクを踏み、ぴあのウェブサイトを見に行くと、そのページには編集部より次のような趣旨が付されていた。

大槻ケンヂ(筋肉少女帯/特撮)が新たに綴る新連載「今のことしか書かないで」は、タイトル通り、ここ2週間内に起こった個人的なトピックのみを拾い上げて書いていく、“現在進行形のオーケン”が詰まった内容。

 初回は「パパ活、というものをしたことがない。」という書き出しで始まる。
 若い娘とご飯に行ってご馳走をしたら(金銭が発生したら)もうアウト、というパパ活の線引きを知った大槻さんは「もし、仮に若い娘と散歩やご飯に行くことになったなら、どう段取ればいいのだろう?」と夢想を始める。

 六本木の鳥貴族へ向かうために坂を登る二人。
 若い娘から仕事は「何してる人?」と聞かれた大槻さんは「音楽関係かな。あと文章も書いている」と答え、今度ネットで新連載が始まるが、きっと「昔こういうことがあった」というのを書くことになるだろうと付け加える。
 それに対して娘はキッパリとこう告げるのだ。

今のことしか書かないで

「今のことしか書かないで。大人はすぐ昔の話をする。昔はよかったとか大変だったとか。知らんから。私ら今のことしか知らんし、大人にも今のことってあるんでしょ? 知らんけど。でも今のことだったら、同じ時代のことだから、ちょっとは私も共感できるかもしれない。だから、今のことだけ書いてよね」

P10

 娘が放った一言に深く共鳴した大槻さんは、そのまま連載タイトルに採用する。
 読者の私も大槻さんの「昔こういうことがあった」は数多く読んできたので、ここに来て新機軸を打ち出してきたか! と読みながらワクワクした。

■ リアルとフェイク

 連載はエンタメサイト「ぴあ」で2023年5月10日から2024年6月5日まで隔週で公開され、このたび加筆、修正されたものが書籍として今年の10月に刊行された。
 ここまで読んで「あれ、小説家・大槻ケンヂが帰ってきたとか言ってたけど、これってエッセイ集じゃないの?」と疑問を覚えたアナタは鋭い。

 私も当初は、大槻さんがよく表現するところの「サクサク読めてクスッと笑える」ライトエッセイの連載が始まったのだと思っていた。
 しかし章が進むにつれ、徐々に現実ではあり得ない事柄が書かれるようになり、いつの間にか“限りなくエッセイに近い幻想私小説”へと変貌していったのである。
 ちなみに単行本のまえがきにも「リアルとフェイクの入り混じる」とハッキリ書かれている。
 そして連載終了後、改めて書籍を読み通した私は「これはオーケンの小説の完全新作である」という確信を深めている。

■「いえ、希望を書いてるんです」

 オーケンは、ある意味においては「信頼できない語り手」である。
 書籍刊行と同じ時期、ぴあで「出版記念対談 大槻ケンヂ×燃え殻」が公開された。
 作家・燃え殻もまた「大槻ケンヂから影響を受けた」と公言する書き手の一人である。

 オーケンの名著の一つに『リンダリンダラバーソール』がある。
 「バンドブーム」に翻弄されたバンドマンたちの熱狂と騒乱の日々を活写した実録エッセイ的な読み物だ。
 今から数年前、オーケンに初めて会えることになった燃え殻さんが「『リンダリンダラバーソール』のコマコ、大好きでした」と告げると、オーケンはこう言い放った。
「コマコ、いないんだよね」

大槻 そう。『リンダリンダラバーソール』って、半自伝的なエッセイみたいなもので、コマコっていうヒロインが出て来るんですけど、本当は、いないんですよ。創作なの、僕の。

 しかし、それはただの「嘘」や「創作」ではないという気付きを燃え殻さんは得る。

燃え殻 でもそれで、「あ、それでいいんだ」って思ったのがひとつと、あと大槻さんに、「起きたことをもっと劇的に書いたり、あるいはもっと悲しく書いたりするのが、小説やエッセイの希望じゃないか」と言われて。その「希望」って言葉がガーンときて。「おまえ嘘つきじゃねえか」って言われても、「いえ、希望を書いてるんです」って言おう、と思って。(略)

■ 長い長いツアー

 本書には、大槻さんに関わりの深い死者たちが登場する。
 頭脳警察のPANTA、BUCK-TICKの櫻井敦司、映画プロデューサーの叶井俊太郎、そして父親……。
 「最近毎日のように、まだ若いミュージシャンが天に召されている」という記述も出てくる。
 特に印象深いのはベラ(石塚"BERA"伯広)のエピソードだ。
 ベラは80年代の筋肉少女帯に在籍し、大槻さんとは「電車」というバンドを組んでいた、いわば盟友である。

ベラは五年前の二月の末頃に突然死して、この世からいなくなってしまった。

P196

五年の間に僕もベラについては心の内の置き所が決まってきて「アイツは、長いツアーに出ていて最近会っていないだけだ」ということになっている。

P201

 オーケンは、ベラがもうこの世にいないという厳然たる事実を「やつは長い長いツアーに出ていて、今いないだけなんである」と思い込むことにした。
 それは嘘でもなんでもなく、言ってみればそれがオーケンにとっての「希望」である。
 華やかなライブステージと日々の“退屈な人生”とを比べたときのギャップを嘆き、「僕はロックを生業としているけれど、その日常が他の一般的なお仕事の方々とさして変わらない面が多いことにたまに茫然とする」とオーケンは書くが、友人の死とその不在を「長い長いツアー」と思い込めるのはやはりミュージシャンの特権であり、一般人の私は羨ましさを覚えた。

■ 綿いっぱいの希望を!

 「今のことしか書かないで」と彼女は言った。
 しかし、自らの日常と照らし合わせればよく分かることだが、直近の二週間で「これは書きたい!」というネタがそうそう転がっている筈がない。

大きな事件のある二週間もあれば、取り立ててなにも起きない二週間もあるだろう。でもそれが我が日々だ。仕方がない。

P11

 大きなトピックがあるときはいいが、問題は「取り立ててなにも起きない二週間」だったときだ。
 本書では「体はボロボロになってる」「あと二年で還暦のおっさんだ」と自らの老いを意識する筆致が目立つ。
 昔の功成り名を遂げた文豪が手すさびに書くような「今日は庭に○○の花が咲きました」みたいな枯れた(悪く言うと退屈な)随筆に手を染めるチャンスもあったと思うが、オーケンはその選択をしなかった。「仕方がない」とはしなかった。
 オーケンは文中で自ら「幻想配給人」と名乗るほどの、人を楽しませる宿命を背負った、エンターテインメントに呪われた人間である。まだまだそんな枯淡の境地に安住するわけにはいかないのだ。

 「取り立ててなにも起きない二週間」だったとき彼は、主に前髪パッツン姫カットの金髪美少女とのやり取りを中心とした、幻想に満ちた「希望」を書いた。
 冒頭の彼女も「嘘は書かないで」とは言わなかった。オーケンはちゃんと約束を守るオトコだ。
 そして当然ながらこれらは“嘘”ではなく、「希望」である。
 どこまでも平坦に続く灰色の日常に光を見出すための、魔法のような「希望」だ。
 バンド「特撮」のアルバムタイトルになぞらえるならば、本書には「綿いっぱいの希望」が詰まっている。
 オーケンに「今のこと」をリクエストした彼女も、きっと満足してくれる一冊だと思う。



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