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川上弘美「物語が、始まる」は何故グッとくるのか? 第五夜


 全7回に渡って川上弘美「物語が、始まる」の魅力を紹介します。

 ↓ 前回


第五夜 「私たちのもっとも幸せな時間」


 三郎との日々について、“私”が「たぶん、あれが私たちのもっとも幸せな時間だったのかもしれない」と振り返る場面が出てきます。
 時系列としては、三郎が「古くなり始めている」ことが発覚する少し前の出来事です。
 ある日、二人は小さな美術館を見つけます。それは、三郎を拾った砂場の裏手にありました(「それまでそのような場所に美術館があるのに気づかなかった」)。
 館内では「両掌をあわせている丸い顔の人魚」や「背中に大きな魚をしょった福々しい顔の老人」といった不可思議な人形たちが展示されていました。

 私と三郎は、むきだしで置いてあるかなり大きい人形たちの間を、何度も行ったり来たりした。行ったり来たりしている間に、私たちも人形たちも、同じようなものになってしまった。私のからだは石膏やブロンズのように均質なものとなり、三郎の動きは次第に緩慢になった。そして、最後には私たちはすっかり静止し、その空間には、人形と私と三郎と決して動かぬ監視員が音もなく佇むだけとなったのであった。
 佇みながら、私と三郎は、さらに深い眠りのようなものに入っていきつつあった。その眠りの中で、私たちは永遠に見つめあっているのだ。三郎の目の中に私があり、私の目のなかに三郎があり、その連続は、無限であった。
 私たちは、ただそこにあるのであり、それ以外の属性は一切ないままに、見つめあっているのであった。

P64~65

 もしここで終われば、この物語はハッピーエンドで幕を閉じたかもしれません。
 この世の全ての恋人たちは、究極的に言えば、この世界においてたった二人きりになることを望んでいるかと思います。いまこの瞬間に“私”と“あなた”しか存在しない、「それ以外の属性は一切ない」状況を。
 そして、彼らの身を焦がす熱情が、少しでも長く(可能ならば永遠に)続くことを望みます。
 二人は、彼らの他に客が誰もいない小さな美術館で、それを実現させました。
 非現実の沼にズブズブと浸かっていた“私”はとうとうこの瞬間に全身がドップリと飲み込まれ、「からだは石膏やブロンズのように均質なものとなり」、三郎や人形たちと「同じようなものになってしまった」。
 ついにこの瞬間、“私”も雛型になったのです。
 同じものになった二人は互いを見つめ合い、その瞳と瞳で「合わせ鏡」のような状態を作り出します。わたし(評者)が指摘するまでもなく、合わせ鏡は“無限”と“永遠”の象徴です。
 この瞬間、二人はどれだけ幸せだったことでしょうか。
 忘我の境地に包み込まれ、もしかすると幸福を意識する余裕さえ無かったかもしれません。
 本来であれば、自分のカラダが人形になってしまうというのは恐怖の部類に入るものであり、そういう結末のホラー小説を読んだことがある気もします。
 しかし、本作においては“ずれ”によりそのあたりの価値観が転換・変質しているため、三郎や人形たちとの同化はこの上なく幸せな事象・達成として描かれます。このシーンに、わたしは究極の愛の形を見出すのです。
 奇妙な題材ではありますが、これだけ純愛というものを見事に書き切った小説は、なかなか存在しないのではないでしょうか。
 反対に言えば、むしろ奇妙な題材だったからこそ、てらいなくストレートに究極的な恋を表現できたのかもしれません。

 ただ、それが究極的である分、ここが非現実の「底」だった、とも言えます。
 プールを思い浮かべてみてください。
 底に足が着いたら、あとは水面に向かって上がっていくだけです。
 たいていの物語がそうであるように、異界で冒険をした主人公は、やがて現実世界に帰還します。
 “私”についても例外ではなく、三郎との同化という非現実の極致を経たあとは、現実世界に戻っていかねばなりません。
 美術館での一件のあと、“私”は街でばったり偶然本城さんに遭遇します。それは、二人が破局して以来の再会でした。
 二人は喫茶店に入って他愛のない会話をし、特に大きな展開もなく、「久しぶりに出会った疎遠な親戚のようにして」別れます。
 一見「なーんだ」とも思えるような平凡なシーンですが、注目すべきはまさにその“平凡さ”です。
 二人が交際していたときは「オーストラリアで負い目を感じるのよ」や「夫婦茶碗を飲み込もうかしら」などの壊滅的な会話を繰り広げたこともありましたが、このたびの再会ではそのような“ずれ”が無いまま自然にやり取りを終えます。これは、今までの二人にしてみれば特異なことです。
 これはつまり、非現実の世界から徐々に離れて“私”の意識が現実世界寄りになってきていることの兆候であり、何よりの証左ではないでしょうか。
 本城さんとの再会のエピソードは「本城さんはつまり、今まで私が知っていた本城さんとは異なったものに変化しているのであった。」という一文で締められていますが、この場合もおそらくは「変化」したのはきっと“私”の方なのです。

 この「物語が、始まる」という作品は、川上弘美による一種の物語論なのではないかとわたしは考えています。
 その題名からして、物語を語るということに自覚的です。
 三郎は物語の擬人化というか、“物語”そのもののような存在です。
 物語は、物語としてポッとこの世に生まれた瞬間から、その特性として繰り返し語られることを希求します。
 三郎についても同様で、その繰り返しの円環に巻き込まれた“私”と共に、「物語が、始まる」という世界は何遍も何遍もその再生を繰り返しているのではないか、と読み取れる描写が数多く出てきます(これについては次回の第六夜で触れます)。
 最初はただの雛型だった三郎は、“私”を惚れさせるくらいには魅力的な男に成長し、“私”といろんなことを話し、時には二人でどこかに出かけ、やきもきしながら性交の道を模索し、急激に年をとって晩年を迎え、再び元の雛型に戻りました。
 三郎が元の状態に戻ったように、最後には“私”の方も「自分が三郎を忘れはじめていること」を自覚します。“私”もまた、三郎を知らない最初の状態に戻っていくのです。
 ゼロから始まって、またゼロに戻る。
 それは、わたしには丸い円を髣髴ほうふつとさせます。
 何もなかったところから点が動き出す。
 円を描くように一周して、円がその像を結んだ瞬間にフッと円は消える。
 そしてわたしは想像します。
 この物語は一旦終わったとしても、またもう一度再生するのではないか、と。

 それではまた明日。


 ↓ 第六夜





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