描いて描いて生き延びろ――「ルックバック」感想
先日、劇場アニメ「ルックバック」を見た。
■2度の放心
去年、知人から藤本タツキ「ルックバック」の単行本をもらい、読んだ。
ご多分に漏れずその内容に圧倒され、読了後はしばらく放心した。
作者の藤本タツキ氏は天才だと確信し、他の作品も読んでみようと思ったが、自宅には「読んでくれ、次は俺は読んでくれ……」と怨嗟の声を上げる積ん読たちが鬼のように溜まっている。そいつらにかまけている内に、当初の「読むぞ!」という気持が日々薄れていき、いつしか忘れてしまった。
そして今年、「ルックバック」は劇場アニメとして公開された。
周囲の評判も上々だったので、いっちょ見てみるかと重い腰を上げ、久々に映画館へ行った。
今度は劇場アニメとしての「ルックバック」にすっかりやられた。同タイトルに2度も放心させられてしまった。
今回、劇場アニメ「ルックバック」を見ることで、この物語の凄さがようやく分かった。
原作の発表から3年経ったこともあり、あらゆる読みは出尽くしているような気もするが、彼女たちの「描く」姿勢に背中を押してもらい、私もこれから本作の感想を書く。
何か一つでも目新しい視点を提示することが出来ていたら、とても嬉しい。
今から書くことは「ルックバック」をすでに読んだ・見た人が対象となり、初見の人には優しくない内容かもしれない。
そして劇場アニメの「ルックバック」に感銘を受けつつも、「ここのシーンはこうだった!」みたいな瞬間の記憶能力的なものを私は持ち合わせていないので、基本的には漫画版に準拠した内容になる。ただ、いくつかの点については劇場アニメ版にも触れる予定だ。
■二人の天才
本作品の何かの感想記事で藤野を凡人、京本を天才として対比させるものがあったが、私はそういう風には見ない。
私から言わせれば、二人とも天才である。
ただ、最初私たちの目の前に現れる藤野の姿は、確かに凡人そのものかもしれない。
「絵うめー」
「今まで見た生徒で一番絵うまいよ」
「こりゃ画家になれる絵だねぇ…」
周囲からチヤホヤされて慢心しきったその顔。藤野からは生意気というか、鼻持ちならない印象を受ける。
しかし彼女の揺るぎない自信は、一人の天才の出現によってあっけなく崩れ去ることになる。
学年新聞の4コマ漫画の一枠に新たに加わった、隣のクラスの不登校の生徒・京本の画力は圧倒的だった。
藤野は、今までベタ褒め一辺倒だった同級生から「京本の絵と並ぶと藤野の絵ってフツーだなぁ!」という(無邪気ゆえにかえって)残酷な烙印まで押される始末。
高かった鼻をボッキリ折られる格好となった藤野は、今まで安住しきっていた「絵がうまい」の評価を奪還すべく、死にものぐるいの努力で来る日も来る日も絵の勉強に打ち込む。
ある日の学年新聞(話の初めに出てくるのは4年生で、これは6年生)を見て、京本の画力レベルにはもう追いつけないことを藤野は悟る。周囲からの「もう絵(マンガ)を卒業しなよ」という心ない言葉もじわじわと効いていたのか、「や~めた……」と絵の道をあきらめることをひとり決心する。
小学校の卒業式の日、偶発的な要因で藤野と京本はとうとう対面する。
そこで京本から掛けられた、思ってもみないまさかの言葉。
「藤野先生は漫画の天才です…!」
そう、京本が絵の天才なら、果たして藤野は漫画の天才なのであった。
実は、京本は学年新聞掲載の藤野の4コマ漫画の大ファンだったのである。
この時点では上記の発言はファン心理特有の過剰な持ち上げというか、ただの買いかぶりに過ぎないかもしれない。
しかし、藤野が再起動するには、かつてのライバルと定めた相手からのその一言だけで、もう充分だった。
その瞬間から、藤野は「絵の凡人」という自覚から脱出し、「漫画の天才」への道を歩み始めるのである。
■痛恨の読み落とし
ところで私は「これはどエラいものだ……」と予感させる作品に出会うと、心の余裕が無くなってしまい、ドチャクソ焦って読んでしまう傾向がある。
だから「ルックバック」の単行本を一回ちゃんと読み、それから何度か印象的なシーンをパラパラと読み返したりは一応したのだが、この物語における「そこ分かってないと全然意味ないだろ!」という決定的な箇所を今まで読み落としてしまっていたのを、劇場アニメを見てようやく気付いた。
実に恥ずかしい話だが、もしかしたら私の他にも同じようなうっかり人間がいるかもしれない。その人にとってはここからの話は非常に参考になると思うので、自戒を込めて書く。
二人を永遠に引き裂く、ある破滅的な事件が発生する。
悲報を聞き、京本の実家に駆け付ける藤野。
京本が悲劇的な結末を迎えた原因は、卒業式の日、部屋から京本を出した自分のせいだと藤野は自らを責める。
そのとき藤野は、京本と対面するきっかけとなった4コマ漫画の紙を細かく破る。
その1コマ目が、時空を超えて、あの小学校の卒業式の日、自室で絵を描いていた京本の元へ届く。
そこには「出てこないで!!」とかかれていた。
その言葉に導かれるままに、京本は部屋の外に出ない。
ここから、卒業式の日に京本と藤野が出会わない世界線(≒パラレルワールド)の話が展開される。
その後も京本は絵の勉強を続け、描き終えたスケッチブックを大量に積み上げていく。
物語において枝分かれする前の世界と同様に、京本は『背景美術の世界』という本に出会い、感銘を受ける。
……私の恥を開陳するときが来てしまったようだ。
要するに私は、1コマ目のみがスルリと京本の部屋に送り込まれた後の展開が、「卒業式の日に藤野と京本が出会わなくても、元の世界と同じく京本は美術大学へ進む」ことを表していたことを、すっかり読み落としていたのである。
「あ~なんかヌルッと事件を回避するパラレルワールドでも発生したのかな~」というそれぐらいのヌルい認識でしか読めていなかった。これははっきり言って誤読だろう。
藤野は、悲劇的な事件の発生は「部屋から京本を出した自分のせい」と責めたが、あのとき部屋から出していなくても、「美術大学を志望する」という意味では京本は元の世界とまったく同じ道を歩んだのである。
つまりそれにより、元の世界で藤野が抱え込もうとしている罪は、ここで無効化されることになる。
■枝分かれ先の世界の“漫画”っぽさ
もう一つの世界線の話が始まってからは、それはSF的にもう一つの宇宙であるところの並行世界内での出来事なのか、それとも失意に陥った藤野の創作なのか、そのあたりの判断がいまいち付かない。
しかし、この判断の付かなさが「ルックバック」の面白くて豊かな点の一つであり、シロかクロかを決めるなんてのは正直野暮天だ。この面白さを最大限に享受するために、私はあえて曖昧にしておきたい。
ただ、心情としては藤野の妄想、という表現はちょっと違うか…、藤野が創造したものとして読むといろいろ納得できる点が多い。
京本が侵入者に襲われ「もはやこれまで」というときに藤野がライダーキックで駆け付ける構図は、元の世界での藤野の連載作品「シャークキック」の展開に酷似している。きっとこの漫画は、『少年ジャンプ』的な少年漫画の王道を地で行く、味方が大ピンチのときに主人公が颯爽と駆け付けて形勢が逆転するような、読めばスカッとするタイプの作品なのだろう。
この世界の藤野が「カラテ」をやっているというのも、“漫画あるある”でたまにある「そういえばそんな設定あったな……」というのを作者がどこかから引っぱり出してきた感を彷彿とさせる。
ただ、漫画が持つ特徴の一つでもある、これらのどことない作りものっぽさは、おそらく藤野の創作が拙いことを暗示するものではない。きっと「ルックバック」に対峙する読者に「これは藤野の妄想ではないか?」と揺さぶりをかけるための、ダミーとしてのあえての“ぎこちなさ”だろう。
一旦はカラテに打ち込んだという藤野は、「最近また描き始めたよ!」と京本に告げる。
卒業式の日、藤野も京本に出会っていなくても、(時間はかかったが)元の世界と同様に、漫画の道を歩みはじめるのである。
こちらの世界の京本も、藤野の4コマ漫画の大ファンだった。
自宅に戻る京本。その足は少し弾んでいる。
彼女は過去の学年新聞の藤野の4コマ作品(のおそらく全部)をスクラップブックで保存しており、それらを読み返す。
スクラップブックに挟まっていた4コマ漫画用の白紙に気付いた京本は、たわむれに自身に起きた直近の事件を題材に4コマ漫画を描きはじめる。
ここで注目すべきは、小学生時代には4コマ漫画と言いつつ実質的には風景・室内画しか描いてこなかった京本が、藤野の作風をオマージュした、いかにも“漫画っぽい漫画”を描き上げる点である。
もし藤野があの事件のことを4コマギャグとして描いたなら、こういう風に茶化して描くだろう、という筆致である。これは、元の世界で自分を部屋の外へと出してくれた、そして、もう一つの世界では大ピンチを救ってくれた藤野への感謝と尊敬を込めた、京本からのアンサーである。
そして不思議なことに、こちらの方の世界では存在していない筈の“藤野キョウ”のヒット作「シャークキック」の“キメ”の場面と内容がリンクしているのである(これもまた、藤野の創作説を補強する材料[=揺さぶりのダミー]の一つかもしれないが)。これは、別の世界線においても、未だに二人の漫画家コンビとしての感覚が共有されていることの何よりの証左ではないだろうか。
■時空を超える“軽やかさ”
ところで、一般的に「物語」では往々にして“奇跡”が起きる。
ここでの“奇跡”の意味合いは「現実では決して起こり得ないこと」といったところだろうか。
現実では起きない事柄だからこそ、うまくいけば物語ならではのドライブ感、固有のマジックが生まれる。しかし、その取り扱い方に失敗すると、わざとらしさだったり作為的なものが見えてしまい、興ざめして物語が一気にただの“ホラ話”に堕する危険性もある諸刃の剣、それが“奇跡”である。
数々の名作を物してきた創作者たちは「どのような“奇跡”だったら読者がスムーズに受け取れるか」、そのことに頭を悩ませ、その技術に心血を注いできたことだろう。
この「ルックバック」という物語にも“奇跡”は起きる。
ここでは4コマ漫画が、時空を、そして世界線をも超える。
これは“奇跡”の起こし方としては、かなり絶妙なところではないだろうか。
なんせ、4コマ漫画は軽い。
たった4コマで話をオトす、究極の読み切り作品である。
小学生時代、京本の画力に打ちのめされ、一度は絵の道をあきらめた藤野がスクラップブックを処分する際も、その上に乗っていた4コマ漫画用紙はスルリと軽やかに廃棄からの難を逃れた。
そもそも元はと言えば、「漫画」という媒体自体が、時空を超えて読み継がれる性質を備えている。4コマ漫画の一本くらい、時空を超えそうな気がしてこないだろうか。
もちろん、現実では起こり得ないことなので、そこに説得力を持たせるために、あらゆる場面で4コマ漫画用紙は描き上げられた瞬間に彼女たちの手からスルリと離れ、その過剰なまでの“軽やかさ”を強調する。
そして、小学生の京本の元に1コマ目の切れ端が、失意の藤野の元へ“ファンアート”の4コマ漫画が、時空を超えて、世界線を超えて、届くのである。
■“揺さぶり”の仕掛け
パラレルワールドから4コマ漫画を受け取った藤野は、(作中では今まで入ることのなかった)京本の部屋の中に入る。
漫画家のコンビを解消したあとも京本は依然として藤野のフォロワーであり、「シャークキック」のポスターを部屋に飾ったり、単行本を複数冊購入したりするほどのコアなファンだった。
机の上には白紙のアンケートハガキがあるが、“面白かった作品”に「シャークキック」の番号をこれから記入するところだったのだろうか。
細かいところを指摘すると、「ルックバック」単行本において、京本の机の前の窓には4コマ漫画が7本テープで貼られており、一つだけ「テープのみ」のものがある。
本来は、現在の藤野の元に届いた4コマ漫画は、その窓に貼られていたのが剥がれ落ちたものであるとも解釈できそうだが、そうなると、元の世界では悲劇的な結末を迎えた京本が、前もってその事件を予見してあの漫画を描いたことになる。それもまた、不自然なことである。ただ、道理を度外視して無理やり全てを「現実に起こったこと」と捉えるならば、そういう風に解釈できないこともない。
おそらくこれも、そのような選択肢を残すことによって、現実か空想かの区別を付かないようにする“揺さぶり”の演出の一つであろう。
■「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」
部屋のドアには京本のドテラが掛けられていて、そこには小学生時代最後の藤野のサインがデカデカと描かれている。
その“背中”を見た藤野は、かつて京本から「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」と問われたことを回想する。
単行本の次のページには、藤野が初めて手掛けたストーリー漫画の原作をハラハラしながら読み、その面白さに破顔一笑する京本の姿が描かれているので、一つの理由としては京本(=読者)のためだろう。
しかし、藤野が漫画を描く理由は、果たしてそれだけなのだろうか?
卒業式の日、“卒業の証”を渡すために京本宅に向かった藤野が、京本の自室の前で4コマ漫画を描いたのは、明らかに京本のためではなかった。
その内容は、部屋から出てこない京本が白骨死体化しているという、京本の不登校を皮肉ったものである。
それは自分より画力が高い京本への当て付けとして、藤野自身の溜飲を下げるために描いたものだ。
そう、藤野が漫画を描き続ける理由は、自分のためでもある。
最初の方から本作を読み返してみると、小学生の藤野は学年新聞を手に取り、必ず自分の掲載作を確認している。
藤野・京本の漫画家コンビのデビュー作となった「メタルパレード」についても、京本と共に藤野は掲載紙を確認する。
その後、コンビで読み切り作品を次々と発表し、コンビを解消してソロになって「シャークキック」を連載するようになると、藤野が自分の漫画を読み返す描写がゼロになる。
週刊連載の殺人的なスケジュール、そして過酷なアンケートシステム(この要素は劇場アニメで印象深く描写されている)に巻き込まれている内に、漫画を描く理由は“読者を満足させるため”の方が圧倒的に比重が高くなっていき、“自分のため”という理由はどんどん希薄になっていったのであろう。
だから、京本の自室の前で不意に藤野が崩れ落ちた際、「(あの4コマ漫画を)なんで描いたんだろ…」と後悔し、「描いても何も役にたたないのに……」とまで言わしめてしまったのは、漫画を描くのは“自分のため”でもある、という視点が、その時点で彼女の中から完全に抜け落ちてしまっているからである。
■劇場アニメ上映館の入場者特典
ところである時期、劇場アニメ上映館の入場者特典で「『ルックバック』原作ネーム全ページ」の冊子が配布されていたことはご存知だろうか?(本記事のトップ画像の右、緑色の冊子がそれ)
時期によって配布される特典は異なり、今この記事を書いている時点では、映画館では劇場アニメ版の「原画シートのポストカード」が配られているらしい。
私はこの原作ネーム全ページの冊子を、運よく映画館でもらうことができた。
物語の初期の骨組みであるということもあり、単行本と比較したときに内容が異なる点がいくつか散見できる。
原作ネームにおいては、「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」のアンサーに当たるページには、単行本では印象的な京本ひとりの笑顔の描写はそこには無く、二人による漫画の創作風景の他、「漫画をひとりで描いてその面白さにニンマリとしている藤野」の姿が1ページ丸ごとを使って描かれている。
藤野は、京本のために、読者のために、そして自分のために、漫画を描くのである。
■物語の終わり
「背中を見て」と、京本は4コマ漫画で藤野に語りかける。
その想いを受け取った藤野は、これまで死にものぐるいで描いてきた「シャークキック」の単行本を、あるじのいない部屋で涙を流しながら読み返す。
11巻の終わりには「このつづきは12巻で!」という煽り文が書かれている(ここのメッセージは、劇場アニメ版だとまた違った内容だった筈だ)。
痛ましい事件に遭遇した藤野の心労は、計り知れない。
そのショックの大きさで、この時点で筆を折ってしまっても全然おかしくなかった。
しかし、深い悲しみのなか、藤野は自分の漫画を改めて読み返す。一番の読者はもういなくなってしまったが、“自分のため”に漫画を描くという理由がまだ残っていることを再確認する。
「シャークキック」の単行本の終わりには、この漫画には“つづきがある”ことをすでに予告してしまっている。
だから、そうする。
描くことにする。
藤野はもう一度立ち上がり、描き続ける道を選ぶ。
そのように決心したあとは、淡々と自宅に戻り、漫画を再び描きはじめる。
最後の決心からたった3ページで、「ルックバック」という物語は終わりを迎える。
途方もない絶望から再び立ち上がり、漫画を描きはじめる。
「ルックバック」という物語世界において、これ以上の最上のドラマは存在しないので、そこを満たした時点で終わりを迎えるのは当然である。
■フィクションの力
物語の途中で枝分かれする世界は、藤野の創作かもしれないということを書いた。
しかし、それがフィクションの力というものではないだろうか?
藤野が立ち直るきっかけになったのは、パラレルワールドの京本からの「4コマ漫画」というフィクションであり、再起の最後の決定打になったのは、自身が描き連ねてきた「シャークキック」というフィクションである。
フィクションはフィクションであるが故に、読者を、そしてときには作者をも、絶望の底から救済し、回復させるのではないだろうか。
私はそこに、「虚構」というものでしか味わえない煌めきを、一種の聖性を、この味気ない我々の人生を充足させる何かを、読み取るのである。
■ Look back.
劇場アニメの最後では、京本宅で手に入れた4コマ漫画を藤野は自宅に持ち帰り、その“現物”を目の前の巨大な窓に貼り付ける。こういった形でも、最後までこの物語は我々に“揺さぶり”をかけてくる。
スタッフロールで流れる主題歌「LIght song」を映画館で浴びているときの浮遊感は、只事ではない。
描くことは一種の祈りであると、そのように告げられている気分になる。
藤野はこちらに背中を向けて描き続ける。我々がその表情を窺うことはもう出来ない。
この時点では当然生きているが、藤野は“描き続ける”ことに身を差し出した、殉教者のように私の目には映る。
そういえば本作の劇場アニメ版のポスターには「――描き続ける。」というコピーが書かれていた。
漫画版に登場する「シャークキック」のポスターに添えられていたコピー「蹴って蹴って生き延びろ!」になぞらえるならば、本作のコピーには「描いて描いて生き延びろ」というのも相応しいかもしれない。
藤野がいる世界では、4コマ漫画くらいの軽やかなものしか、時空を超えない。
だから、きっと京本が好きであろう「シャークキック」という漫画は、彼女の元にはもう届かない。
でも、もしかしたら、とも思う。
もしかしたらパラレルワールドの藤野の骨折が治ったとき、いつかあの事件を題材に「シャークキック」という漫画を向こうでも描きはじめるかもしれない。
元の世界の藤野が創作をやめない限り、その世界線が潰えることはない。藤野には、自らが読みたいものを描き切る画力がすでに備わっている。
自分という読者のために、藤野は漫画を描き続ける。
生きている限り、描き続ける。
描き続ける限り、生き延びる。
そして“Look back.”(振り返って)というメッセージは、物語の外側にいる我々にとっても決して例外ではない。
その言葉の意味の通り「ルックバック」を我々が読み返したり/見返したりするたびに、その営みのなかで、彼女たちの物語は永遠に続いていくのである。