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インストラクションをやめてみる。

2024年4月17日(水)の夕方。僕は長岡市へ車を走らせていた。何か鬱々としたものが、胸のあたりに刺さっているようでもあったし、詰まっているようでもあった。とにかくよい気分ではなかった。

いつもの詩作で始まるはず、が

異動したての僕は、まず環境に慣れることを最優先にしたかった。全学年の国語を受けもつのと、空きコマが今年は少ないのとで、いきなり3学年ぶん別々の授業準備をするという選択肢を捨てた。授業の質を担保するためでもある。だから、どの学年も詩作の授業で始めることにした。

教科書の詩を読んで、学校の周りをFeel度Walk(散歩)して、見つけたものをスケッ知(写生)する。このあたりの詳細は別の記事でまとめるので割愛する。詳しく知りたい人はまずこちらの本を。

詩の素材を探しに行く野外散歩を終えて、撮ってきた写真の中から1枚を選び、それを模造紙に模写する授業のタイミングだった。前日の夜につくったスライドを見せながら、普通教室でスケッ知に関するインストラクションをした。それからオープンスペースに向かった。

Feel度Walkの手応えはまずまず

そう、当校には各階にオープンスペースがある。今までの勤務校には開かれた学びの場はなく、閉じられた教室で授業をする以外に選択肢はなかった。スケッ知は子どもたち一人一人が発見してきたものを描きながらシェアすることが目的なので、折角ならオープンスペースでやってみようと思った。

描きながら互いの発見をシェアしていく

模造紙を広げてスケッ知を始めたところ、ある生徒が自分の発見したものとは関係ない落書きを始めた。それに周囲の生徒も呼応するように集まってきて、嬌声、爆笑、混乱……。およそ授業中とは思えない状況になってしまった。

今までそんなことは起きなかった。普通教室でのスケッ知なら、こんなことにはならなかったかもしれない。そんなことが僕の脳裏をよぎる。オープンスペースの空間で授業をするとき、子どもたちの注意力は散漫になる。開放的なので声や指示が通りにくく、生徒たちを固定する椅子や机はないからだ。

ただ生身の僕と子どもたちがいて、僕はそれに立ち向かわなければならない。そこにいる僕にパワードスーツはなかった。

四角に仕切られた教室空間。2つに限定された出入り口。前方と後方がはっきりしたレイアウト。正面の大きな黒板。後ろのロッカー。一人ひとつの、道具箱も入れられる机。正面や背後の掲示物。こうした空間デザインや道具が、間違いなく僕たちの授業を支えていたのだ。

https://kazakoshi.ed.jp/kazenote/dandan/27369/

こんなことになるなんて想像も及ばず、焦った僕はオープンスペースで立ち尽くしそうになった。

先生が、狼狽うろたえちゃ、いけない。

瞬間的に僕はそう思って、子どもたちを注意した。

「ちょっと収拾がつかないから、やめて!」
「おい、いいか、ちょっと!」

自分の場所に戻る子、その場から離れない子。彼らの行動は揃わない。

風越の先生方は、ぼくが入っている公立の学校の先生方と大きく違っている姿があって、それは、授業中にどうしたらいいかなと考え込んじゃう場面が多いということです。そして、そのことが自然に板についてきたなあと見ながら感じていることです。ぼくはそれを「立ち尽くす」と表現しているのですが、この先生が子どもたちの前で、あるいは子どもたちと一緒に立ち尽くす姿が、そこかしこに自然にあるってめちゃくちゃ貴重なんだと思っています。このこと自体が、ここにこの学校があることの価値だ、と。

https://kazakoshi.ed.jp/kazenote/insight/33590/

間を置いて、僕の中に違和感があって、変な汗が出てきた。久々にショックだった。彼らにとっては今やっていることが面白くないんだ。時間にして一瞬、様々な思考が逡巡しては消えていった。はっと我に返って、僕は彼らに近づいて言った。

「いや、これはこれでいいかもしれない!これも含めてアートだと思おう。……でも、やっぱり、この時間は自分の発見を描いてほしいな。」

これが、あのときの精一杯のリカバリーだった。それからギャラリーウォークをしたのだけど、落書きをした彼らは自分たちの絵にiPadを乗せて隠してしまった。なんだか煮え切らない空気だった。

授業終わりに、僕は沈むところまで沈みきった。結局、権威を振りかざすことで子どもたちをコントロールしようとしているではないか。いかに僕が普段パワードスーツに頼っているかを痛感させられた。

曲がりなりにも僕はこの1年、インストラクションを鍛えてきたつもりだった。授業が始まる前に漢字クイズを投影して、生徒が食いついてくれたら「答えはなんでしょう?書いてみて」などと言って、いつの間にか授業が始まって終わるように、授業と休み時間をシームレスにつなぐためのチャレンジを試みてきた。

でも、それは普通教室での話だ。オープンスペースでのインストラクションは更に難しい……というか、場づくりのが異なる感じだ。普通教室で生徒の注目を集める手立てが、オープンスペースでも通用するとは限らない。

落ちこんだままでいるわけにもいかず、午後から同じ授業を別の学年でも行う予定になっていた。このままじゃ駄目だ。何かを変えないといけないんだ。僕は前日つくってきた綺麗なスライドを捨てて、普通教室ではなくいきなりオープンスペースで授業を始めることにした。

他の学年が描いた模造紙を置いた

どうすればオープンスペースにわくわくした気持ちがもてるのだろうか。そう考えたときに、場のつくりやしつらえを工夫することが重要なのではないかと思った。だだっ広い空間があるだけでは不十分だ。そうだ、理科室や美術室にはみんなわくわくするじゃないか。「国語室」とも呼ぶべき空間があれば、事態はもう少し変わるのではないか。そう思った。

でも、今から設備を大きく変えることは難しかった。だから、他学年のスケッ知が描かれた模造紙をばら撒いておいた。インストラクションから入らず、「開けてみて!」という指示をしてみた。すると中には様々なスケッ知が……。「なにこれ!」という声。ざわめき、笑い声。なるほど、オープンスペースでの立ち回りって、こういう感じか……。

その授業では、生徒たちは落ち着いて取り組んでくれていたように思う。しかし、先の失敗を引き摺りっぱなしの僕は浮上できずにいた。何かを掴めそうで掴めず、大きな課題を背負った気がした。

インストラクションをやめてみる

それから僕は、もともと行く予定だった石川晋さんの講座に向かうべく長岡市へ車を走らせた。車内でも僕は沈んだままだった。その日がたまたま粗品のアルバムがリリースされた日だった。彼が僕を励ましてくれた。やはりロックは弱者のための音楽だと思った。

石川晋さんには、ずっとお会いしてみたかった。「読み聞かせ」というテーマに関心をそそられたのは勿論なのだけど、「一体どういう人なのだろう」という好奇心のほうが強かったように思う。

それから、界隈で話題になっていた『揃わない前提の授業とクラス』も気になっていた。晋さんは「インストラクションを一旦、やめてみるべき」という趣旨の巻頭言を寄せており、これが一部で物議を醸したのだとか。

このインストラクション云々に関する話が収録されていることは、晋さんの講座に行って初めて知った。僕がオープンスペースでインストラクションありきの授業をして、大いに失敗した日。この日に晋さんの講座があったことはまったくの偶然なのだけど、偶然とは思えないものを感じた。

晋さんの場を体験した感想を一言で言うと、今まで僕が授業で大切にしてきたことがことごとく破壊された一夜だった。僕はこの1年、「魅力的なインストラクションとは?」と己に問い続けて実践してきたが、それも結局「面白先生になるには?」という問いと地続きなのだと気づかされた。

どういうことかといえば、晋さんは公立小学校に入って授業をされているらしいのだが、例えば「海の命」の単元では自由進度学習を取り入れており、本文を読んでアウトプットする方法が12種類ほどワークシートに用意されている。その中から好きなものを選んで、「あとはそれぞれ頑張って」というのが晋さんの基本スタンスである。

ただ、決して子どもたちを放っておくわけではなくて、順番に子どもをひとりずつ呼んでカンファランスを行っているそうだ。アウトプットの種類の多さにも驚かされたが、何よりインストラクションなしでも成立する授業の具体は新鮮だった。なるほど、インストラクションをやめてみるには、教師の代わりにインプットを担ってくれる環境を整えるのが鍵なのかもしれない。

岩瀬直樹さんも、教室環境やシステム、仕組みや枠組みに変化をもたらすことで子どもの意欲をブーストしている。これらの話がひとつの地点に収斂しゅうれんしていくのを感じた。オープンスペースでの授業ではしつらえ、場づくりが重要なのだ。逆にインストラクションをやめてみるのにオープンスペースはあつらえ向きだと言えよう。

縦糸と横糸

他にも、学級経営に関する話に少しぞっとした。「授業が学級経営の中心だから、授業さえ上手くいっていれば学級は落ち着く」という論に晋さんは懐疑的だそうで、学級づくりは学級づくりでしっかりやらないと、という話。

縦糸を通すように、何か通年で貫く手立てがないと今の学級は簡単に崩壊する。それも4月から考えているようでは遅い、もう始めていないといけない、とも。学級経営は縦糸、日々の授業は横糸。いずれでも欠かせばほつれやほころびが生まれ、不登校や不適応、いじめといったひずみへと繋がっていく。

僕が学級経営のために思っていたことは、恥ずかしながら「PA(プロジェクトアドベンチャー)やってみたいな」くらいだった。晋さんの講座を終えた翌朝、手遅れになる前に手立てを模索することにした。クラスの生徒たちと話したところ、彼らは小学校時代に会社活動をやっていたことが分かった。学年部の先生方とも話して、まずはそれに乗っかろうということになった。

子どもたちから出てきた、かつての会社活動

ちなみに、PAも会社活動も先の『クラスづくりの極意』に載っている実践だ。小学校の先生方も、この本を読まれたのかな。それ以外にも魅力的な手立てが盛り沢山なので、興味のある人はぜひ読んでみてほしい。

読み聞かせの備忘録

晋さんの講座の主題は「読み聞かせ」だったのだけど、1時間後にようやく「そういえば、読み聞かせの講座だったね」という話になり……(笑)いくつか晋さんに本を読んでもらった。備忘録として書き残しておく。

『トリゴラス』。実にツッコミどころの多い話だったのだけど、それがよさなのだろう。子どもたちに問いかけながら、「トリゴラスとは何者なのか?」なんて考えてみたい。絵本は読む方向へ流れていく、そんな作り手のこだわりも感じられた。

『かわ』。旧版と新版を比べると「消された1文」があり、それを掘り下げていくと公害や環境汚染の話につながっていく。道徳の教材としても使えそうな一冊。

『おだんごぱん』。晋さんは最近、ロシアやウクライナの絵本を積極的に使っているのだとか。これもロシアの民話をもとにした絵本である。詩にも似たリズムが心地よい。朗読の楽しさが伝わってくる内容であった。

読み聞かせはインストラクションとしてかなり強力な手立てだと思っている。インストラクションをやめてみると言いながら、やはり魅力的なインストラクションで子どもたちを惹きつける技術も磨いていきたいと感じた。

浮き沈む一日

目まぐるしく沈潜と浮上を繰り返した一日だった。晋さんと別れたあと、同じ場に居合わせた先輩教員のA先生と立ち話をして、それもまた救われたのだった。「先生はいろいろやって頑張ってますよ」「失敗はするもの、しょうがない」。やはり、しんどいときは人の言葉に救われるものだな。

オープンスペースでのチャレンジと失敗、晋さんの話、『揃わない前提』の本。すべて出合うべくして出合った、そんな気がする。一般的な教室は学習に集中できるよう設えられていて、それ自体は先人たちの知恵が紡ぎだした尊い「最適な学習環境」なのだと思う。

だが、「子どもたちにとって最適な学習環境なのか?」と考えると、今の僕は首肯しかねる。オープンスペースでの挑戦を続けてみようと思う。そのヒントが美術室にある気がして、僕はそこに足を運んだ。

わくわくする国語の部屋、とは

妙高山を眺めながら出勤して、帰ってくるとまたその眺めが見える。日常は尾根のように上がったり下がったりを繰り返していく。空と山の境目、稜線をぼんやり見つめていると、そんな風に思える。

夕暮れの妙高山


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