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⑦倉橋惣三が考える、子ども達に身に付けて欲しいと思う能力「本真剣」とは?

A. 全心全力を挙げて一定時内ただひとつのことに集注しているということ

今日のお子さん方の共通の欠陥が、何事にまれ熱中することの少ないということにあるのでありますから、・・・幼稚園ではお子さんが将来物事を行うに際してそれに集中し得、熱心になり得る素地を作ろうとしているのであります。

幼稚園雑草(上)p163~164

なんか、仕事を3年で辞めるなんていう若者が増えてるって、結構前に騒がれていたことがありましたね。こんなこと書いてる自分もその若者の1人ですが。笑

まぁ、でも、幼稚園で何かに熱中すれば大人になっても熱中し続けられるかといえば、そんなわけないですし。色んな要因が重なって、そういう選択肢を取らざるを得ない人達が多いのかと。

ただ、個人的には「自己理解」と「相手の理解」が昔と比べて格段に高いレベルを求められているのかなと思います。昔は「石の上にも三年」みたいな価値観の元に我慢というのが当たり前で横行していたおかげで、「やめたい」と思った人達を抑圧していた感じだと思いますが、今は多様性の時代とかなんとかで、「素の自分を出していく」のを周りが受け入れなければならないみたいな感じになっているのが要因の一つかと。

だからこそ、自分が何をしたいのかを自分がはっきりと理解しておかなければならないし、そのやりたいことをそこで出来るのか、相手の理解もしておかなければならないかと。

で、自分を理解する時に、他人と一緒のことを同調圧力でやっていたら、自分の事なんて理解できないと思うんですよね。だって、自分の行動を、自分を見ずに、相手を見て決めているので。相手基準でやってて自分の基準を捨ててるんだから、そりゃ自分の事なんて理解できないよなと。

自己理解を深めるという点において、森の幼稚園の自由遊びが良いなと強く思ってます。別に先生がこれをやれって子ども達に命令することは無いですし、子ども達はその時に自分がやりたいと思ったことを自分が納得するまで没頭することが出来ます。

で、そういう環境はとても良いと思いますが、本人としてはやりたいことをやっているだけな感じなので、感覚的というか、特段に本人は意識してないと思うんですよね。そこで、先生がドキュメンテーションしたり、保護者の方に様子を伝えたりする、つまり、言語化しておくことで、より一層子ども達は自分のことを理解しやすくなると思うので、先生としてそういうことをサポートしていきたいなと思いますね。三つ子の魂百までとか言いますから、小さい頃の自分を知っているのは、自己理解を深めるうえでとても役立つと思います。

というか、熱中することが少ないって倉橋惣三は書いてますが、昔は選択肢が少なかったから、それしかやるもんがなくて、結果的にそれを長く続けていたみたいな感じもあるかと。今の時代は、どんどん新しいものが生まれてくるので、そりゃあ目移りしてしまうのも分からんでもないかなと思いますね。

「以下、幼稚園雑草(上)p233~241より抜粋」

<一>
我等が子供に向って希望することのうち、何よりも一番大切にしていることは、物事本真剣な子供、本真剣になれる子供になってもらいたいということである。賢い子にもなってもらいたい。敏捷な子にもなってもらいたい。器用な子にもなってもらいたい。しかしそれらよりもずっと根本的なことで、比較にもならない程大切なことは本真剣ということである。

自分もそう思いますね。

<二>
本真剣ということは、これをむずかしく解釈すれば、いろいろの意味が含まれる。しかし、簡単にその要を捉えてみれば、全心全力を挙げて一定時内ただひとつのことに集注しているということになる。これを裏からいえば、浮心でないことである。ふた心でないことである。しかして、集注するというからには、その深さと長さとが考えられる。一方は本真剣の程度であって、一方は本真剣の継続である。ところで、程度のない継続もなく、継続のない程度もない訳であるから、この二つの問題を分けて独立に考えることは出来ない。しかし、ここで我等の主に考えていることは継続よりも、先ず程度の方である。本真剣の長く続いてくれることは、我等のもっとも希望するところである。しかも、仮に長さは短くとも、とにかく現在自分のしていることに専念没頭してもらいたいのである。すなわち我等の問題は先ず集注の深さの多くを意とする。物事を浅く上滑りしか出来ない子供を、我等はもっとも憂い悲しむのである。

「物事を浅く上滑りしか出来ない」のは嫌ですね。浅い所にとどまってしまう原因って、「それ以上に良いものがある」と考えられない想像力の欠如だったり、「これで私は全てを理解した」と思える慢心の心だと思います。

まぁ、別に全員が全員深いところまでやるのが良いなんて思っていませんし、別に子ども達が上滑りしていたとしても、卒園してから何かのきっかけさえあれば、何歳からでも自然に「深める」ことは出来ると思いますけどね。

物質的な満足が保証されて、精神的な満足を考える現代において、自分が深めたいと思えるモノを持っているというのは恵まれたことだと思うんですけどね。「自分のテニスボールを見つける」って表現したこのスピーチは結構良いなと思いますね。

今の世界がVUCAなんて言われて、これからロボットで仕事が代替されていくなんて話が出て久しいですが、別にそんなことになるから「専門性が大事!」って話ではなくて、どんな時代においても「専門性が大事!」ってのは普遍的な真理だと思います。

浅滑りして得たモノって、そこでしか使えないような限定的なモノって感じがするんですよね。一方で、深いところまで一生懸命頑張って得たモノは、どこでも応用できるような一生モノな感じ。多分、深い所に辿り着くまでの「一生懸命さ」であったり、「問題解決力」だったりといった能力的な部分を身に付けるのが大事ですよね。

<三>
・・・しかし、広くなれば浅くなり、深くするには狭くするというのが普通であるとしてみれば、一時一事を本真剣の普通の場合と見られる。・・・すなわち我等の本真剣は同時に二つのことを思ったり、またたとえ一つのことでも、それを見ている我を、さらに我が見るというような、そんな余裕のないことである。全我を挙げて、一事に傾倒し尽くすことである。

人間としても、浅く広くタイプよりも、狭く深くタイプが好きだし、そうありたいなと思いますね。なんかチームを作る際も、各分野のスペシャリストというか、それぞれが自分の得意分野を持ち寄って集まった感じが良いなと。浅く広くって、誰にでもマネできるんじゃないかなって思うし、何なら、知識とかならネットに勝てるわけないし。それなら目指すべき方向としては、自分の専門分野を持つ方向ではないかなと思うんですよね。

大好きな早乙女哲哉さんなんて「全我を挙げて、一事に傾倒し尽く」された好例だと思います。

<四>
・・・子供の心は一時一事、一時一我がその特性である。ちょっとでも面白いことがあれば、すぐ他事一切を忘れる。興味の向かうところ直に全我をその中に没入して躊躇し遅疑するところがない。これが子供の本性である。・・・けだし我等成人において、一時一我の没頭的本真剣を難からしむるもの、これは要するに結果の顧慮に他ならない。すなわち、結果に就て多く顧慮するものは、現在目前の事と、しかしてその結果と、常に一時二事的ならざるを得ないのである。かつまた結果の顧慮は、つまりある意味の打算であるから、事その事に当る我と、結果を打算する我と二つに分かれて後の我が前の我を監視することになるのである。一時一我の没頭がむずかしくなる訳である。

大人はメタ認識能力が持てる段階にあると思うので、本真剣にならなくても良いかと思いますが、子どもの時は是非とも「無我夢中」というか「一意専心」というか、何かに没頭しててほしいなと思いますね。

大好きな漫画「花男」にて、主人公の花男が一意専心という言葉を使っていた。
その年の書初めに「一意専心」って書いたのを覚えてる。笑

で、本真剣の能力を身に着けた段階の先にあるのが、メタ認知できるかみたいな段階かと。子どもの時は、「今、自分、一意専心」のことしか考えられないけど、成長するにしたがって「過去・未来、他人、マルチタスク」のことまで頭が回るようになるのが、(いわゆる良い意味での)「大人になる」ということかと思いますね。つまり、「子どもらしい子どもは大人らしい大人に育つ」と思っています。

(悪い意味での「大人になる」については、こちらの記事で書いた中島義道さんの文章を引用すると、「感性も思考も凝り固まる。」ですね。「さまざまな要素に目配りして総合的な判断を下せる能力」と言えば聞こえは良いが、それを裏返せば、「因習的で限定的な判断、共同体の一員として生きていける”賢い”判断を下す能力」である。そんな能力を子ども時から身に付けせて、子どもが子どもらしくいられず、やけに大人びた振る舞いしてしまう「大人っぽい子ども」は、その反動で、大人になってから、「子どもっぽい大人」になってしまうのかなと思います。

だからこそ、子どもの時はできるだけ、子どものやりたいようにやらせるのが吉かと。その経験を経て、どんどん意識が外に向いていくようになるのでは。大好きな「奈々子に」という詩にも、

自分があるとき
他人があり
世界がある

とありますので、子ども時代は自分を作る時期なのかなと思いますね。ちゃんと自分が作れれば、自然と外に意識が向かっていくのかなと思います。

<六>
教育のもっとも普通なる誤謬は、教育の目的が直に児童の所意と一致すると考えられることである。しかも教育の目的と児童の所意とは一般に一致しているものではない。教育は児童を賢くしようとする。児童は決して賢くなろうなどとは思っていない。教育は児童を善人にしようとする。児童は決してそんな望みを持っていない。児童は遊びの面白からんことを求める。お話の面白からんことを求める。否、もっと厳密には面白いということさえ求めていない。面白いというのは結果である。児童の没頭していることは遊びそのものである。傾聴しているのはお話そのものである。その他に何を求めても考えてもいない。つまり、教育の目的は遠いーーー現在とは離れたことである。それに対して児童の所意は現在にある。教育の目的は現在は持ち来たすべき結果である。間接である。それに対して児童の所意は現在のこと、それ自身である。直接である。・・・その上にこの間接目的の故をもって、しばしば児童の現在所意を無視するのは教育の甚だしき乱暴である。・・・これが教育が児童の本真剣を失わせるに大きな危険の一つである。一時一事、一事一我の本真剣は、ただ自己の所意においてのみなし得る。頼まれて出来るものでもなければ、強いられて出来るものでもない。本真剣は事に忠なると共に、自己に忠なることである。その自己の所意を踏みにじられているところで、いつ本真剣を経験し得る機会があろう。

「教育の目的は遠いーーー現在とは離れたことである。それに対して児童の所意は現在にある。」という訳なので、だからこそ、教育は「今日を育てる、つまり『今日育』」と考えるのがスジだろと思うんですけどね。

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