ダメな方が磨く価値もある
だめな自分でありたい、
でもだめな自分や良い自分てなんだろう?
人ってどうして、いい人であろうとするのだろう。でもそれもいい事なんだと思う。
でも、いい人がなんだか分からないから尚更、いい人でいようとする方が不自然な気もするのだ。良いとか悪いって、誰の指標?って思ってしまう。それは社会悪かどうかの指標になっていることが多いのかなと。
良い人でいることより、わたしでいたい。わたしらしくいてもいい人っぽく評価されることはあるけど、全部他人事に聞こえる。悪いやつ呼ばわりされることも大いにあると思う。でもわたしの何が悪いかはわたしには分からない。
例えば、他人はあたしのことを"努力家"という。
へ?…て、思う
わたしって努力してたっけか?…とある他人から見たら私がしてることも努力に見えるんだろうか。だが、努力という基準も人によって異なる。だから他人の評価はあくまでその人の主観。
わたしは人に努力しろと言われたら出来ない。それはわたしが決めることで、他人に言われる筋合いはねぇと思ってしまう(笑)言われたら尚更やりたくない。
よく分からないけども、
良いも、悪いも、努力も無いんだよな。
やりたい事をやりたいタイミングでやりたいようにしているから、酒だって断酒と言いながら、今だと言って飲みはじめるし。
今日は新月ですからという理由で動画を更新して次の新月には特に更新しないし。
小麦は控えてるんですと言いながら、ちょっと今日は食べますとか言うし。
一貫性はない、だけど、そこに一貫性を見出すとしたら、わたしはただ"今"を生きている。心に決めても先々実行していないことなんて、三十五年の経験上取るに足らないことである場合が多い。だって、人生が変わるときって、その渦中は頭で考えずとも行動が先立ってるし、どちらかといえば思考が追いついていない。理由は落ち着いてきたあとから付いてくるようなもので、それもしみじみと感じてくる。だから、頭で考えて実行する内容は思う程に気にしなくてもいいことの方が多い気がする。
あー
今日は飲む量が多いかなぁ、とか。
そんな事で罪悪感抱くなら飲んで潰れる方がいいかな
あー
今日はお金使いすぎたかな、とか。
使った後に心配するなら、使って良かったと自分の行いを賛美したらいいかな
自分で自分を捌いていたらキリがない。
生きるとは、瞬間に賭けることで、それが出来ないなら何もせずに時をただ待てばいい。
やるだけやって、だめになっても後悔はない。寧ろダメだなぁと思う自分自身が、愛おしくさえ感じるかもしれない。
最初から中道をいこうと思ったら、
早く死ぬかな。この世には不器用で傲慢で強欲でバカで弱くて下手で未熟な人間の方が長く生きて、そんな粗を磨き上げて行くから。
だからだめでいい、生きるには尚更、粗があった方が美しく磨き上げる可能性を秘めている。自分が駄目だと思うことは、実は秘めた美かもしれない。
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