人間のエネルギーの根源
毎日何かを書き続けるという目標は、今のところ達成できている。MacBookを開いて文字通り一文しか書かない日もあった。しかし、続けている。もし1ヶ月続けることができたらどうしよう!と言ってみる。4月に締切のあるエッセイも、それなりの量を書き進められるのではないか。noteの投稿も増えるのではないか。私は何ごとも飽きっぽく、変化が好きで、東京に住民票移してからのたったの数年間でもう7回も住む場所を変えているし、お金や夢の為に働いた職場や職種は数えきれないほど。こんな私が、正社員で働いている今の仕事を2年近く続けることができているのには、ふと自分で気づいてびっくりとする。余程居心地が良いに違いない。しかし、それならば、書くことだってきっと続けられる筈だ。
旦那さんとNetflixのリアリティ・ショーを見ていて、対象の人間がエネルギーに満ち溢れ、イキイキとしていることについて話し合った。彼らは、毎日美しく着飾って、大金のかかった仕事をこなし、ぐちゃぐちゃな人間関係の中で揉まれ、しかし決して折れず、負けず、家に帰っても泥のように眠るわけではなく、子育てをこなし、パートナーとの関係を大切にし、家庭も維持している。元々お金持ちの生まれの人物ばかりかと思えばそうでもない。それどころか心を病まずに生きていられるのが信じられないほど、壮絶な過去を背負った人物も多いーーあるいは、それもモチベーションに繋がるのか。
かたや私など、在宅勤務で家から一歩も出なくていい日もあるのに、朝は始業開始ギリギリに起き、休憩時間も座ってはいられず横になり、時々昼寝をし、残業も一切ないのに、肩や背中はばきばきで、仕事後は疲れきって少なくとも一時間は何もできない。この違いはなんだろうか?私は疲れやすいのか、生まれつきロングスリーパーだから仕方がないのか。休みに1日外に出ていても、薄いMacBookを背負っているだけで、午後にはもうとてもとても疲れている。肩が重く、身体が重く、脚が重い。心がシャキッとしていないのである。
旦那さんはもしかしたら違いは『希望』かもね、と言った。大金が稼げるかもしれない仕事をしていれば、その成功体験を繰り返そうと例え作業としては辛いことも、向上心を持って臨める。希望があれば心が晴れて明るくなるから、心身にしなだれかかる重さがなくなり、エネルギーが湧いてくる。現実に向き合い、押しつぶされる前に、強いモチベーションを維持して、前に進むことができる。
なるほど確かに、そうかもしれないと思った。私だって変わらない。noteを数日だって続けられているのは何故だろう。ほんの少しでもいいね、をつけてくれる方がいて、そうしてこうして書き続けることで、将来書くことを仕事にすることに少しでも繋がると、まだ信じることができているから。毎日朝起きられるのは何故だろう。大きな目で見れば同じことの繰り返しの仕事でも、私に毎月の給与と安定安心感と、キャリアを与えてくれると分かっているから。逆に今まで始めたブログやnoteを削除したのは、こんなことをしていても何にもならないと絶望してしまった瞬間だった。全てを投げ出したい気分の時は、思い通りに成功している自分の姿をうまく想像できていない。実際、私は未だ何者にもなれず、中途半端な経験ばかり増えているただの会社員である。それでも、自分の顔と名前で仕事ができる人物になれるかもしれない、という希望を持ち続けていて、今よりも資産も収入も増やして、沢山旅ができるようになると疑っていない。だからまだ書けるし、仕事も、生活も続けているのだ。
特に上手く明るい未来を生きる自分を想像できた時には、私だって少しは自然に活動的になり、エネルギーが湧いてきて、短い期間に沢山のことをこなすことができるし、もう座ったり立ったりできないほど気怠さに負けてしまうこともない。逆にだらけ出すともう、ずっと寝続けてしまう。
もしかして、全て精神的なものなのではないか、と思った。エネルギーの根源が希望にあるのだとすれば。
Netflixのリアリティショーに出るような人たちは、もしかしたら生まれつき人間的に強いのかもしれない、でも何が凄いのか?それは自分を奮い立たせて前に突き進む力であろう。自分自身に期待し、エネルギーに変える強さ。だが人は皆生まれつきそれらを持ち合わせているとも考えられる。
何故なら生物は生きることを選択しなければならず、自主的に死を選ぶことは極めて稀であるからだ。必要以上の危険を犯すことを避けるため、人はまた諦めることも学ぶだろう。しかし私たちの諦めや絶望や怠惰や無気力は本能からくるものなのか?私は違うと思う。それは人類の文化と社会の確立の後、労働階級に生まれた思考と傾向なのではないか。何故なら支配される側は考える必要がなく、懸命に働いて税を払って周囲の人間と同じことをしていれば間違っていないのだ、という価値観の中に生きていて、リスクなしで希望を抱くことは難しい。同じ階級の周囲の人間からの圧力もある。よって、希望が見えない世界観の中、そこからの脱却が著しく難しい世界に存在しうる限り、私たちが過度な希望を抱く前に失敗やリスクを考えてしまうような性格に偏っていくのは、何世紀もの間、人間界にそういう仕組みが出来上がっているからではないのか。
しかし、今世紀は情報の時代である。私のような人間は、上手く希望を抱いてエネルギーにすることができていないのに、SNS等で理想を見せつけられることで生まれる、幻のような願望に囚われ、それを支える能力が欠如している場合、代わりに諦めと無気力と怠惰を身につけていくーー
映像の中の人間たちへの憧れから、こんなことを考えてはじめて止まらなくなっている。これを書き始めた当初から、二日間書き物をサボったこともここに告白する。そうして、ちょうど年に一度の会社からのボーナスと昇給が通達されて、私は会社員としての自分の幸運にまだ驚いている。