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積読解消ーカラマーゾフの兄弟(3) オランダ人はこの傑作を知っているのか?

先週、大学での仕事が再開した。オランダでも学校は9月始まりなので新学年度の始まり。とは言え授業開始は今週からで、先週はいわゆるキックオフのための講師のミーティングや、一年生のためのウェルカム行事などがあった。

火曜日の講師ミーティングはいつもと違うキャンパスで行われたため、夏前に燃え尽き気味のために「あと何度あそこにいく必要がある?」と不安を持って思っていた場所とは別のところ。

この場所に行くのにトラムに乗っていったのだが、そのトラムはいつも下車する大学の駅と同じ路線。その駅で、同僚のHが偶然トラムに乗ってきた。彼は色々話せる人なので顔が見えた時は正直ほっとした。

ミーティングのあるキャンパスは、つまりはスポーツ施設なのだが、ここには数年前まで週に一回くらい来ていた。ここで娘が体操を習っていたのだ。またそれ以前にも、夏ごとに三年くらい続けて夏のスポーツキャンプに参加していたこともあり、会場だったここはその時以来の馴染み。

この施設のことを思うと、ネルソン・マンデラのメッセージを思い出す(上の写真)。この引用はこの施設の壁一面に書かれているのだけど、その前に立つたびに鳥肌が立つような感動を覚える。

ああここは大学のキャンパスでもあったのか、とは自分が勤務し始めてから知ったこと。仕事で来たのは今回が初めてだ。

部屋に集まった同僚たちと顔を合わせるのはひと月半とか二ヶ月ぶりとか。気の合う同僚Hに道すがら会ったこと、気持ちが高揚するようなマンデラさんのメッセージの書いてあるこの場所の雰囲気が好きなこと、そしてこの日はとても良い天気だったというのにも多分影響されて、わりと良い感じでミーティングの部屋に入っていけたし、二時間のミーティングを過ごせた。

つい本題まで長くなってしまうのだけど・・・今日書きたいと思ったのは、やはりカラマーゾフのこと。

ミーティングの一番最初のところで、お決まりの「チェックイン」があって、またお決まりのメンティミーターによって「夏の思い出を一文字で表してみて」と言われた。

まず浮かんできたのが、カラマーゾフ(Karamazov) という一文字だったのでそれを書いた。もう一つ、十日ほど過ごしたクロアチアの浜辺の街の名前も。

みんなが記した言葉を確認する時間になり、マネージャーが、

「カラマーゾフ?・・・誰が書いたのかな?」

と。彼女のその言い方は、カラマーゾフっていう言葉から彼女に何か連想させるものがある、という感じではなかった。「これは一体何?」という。

「はい、私ですよ〜。日本語の表現で積読っていう言葉があるんだけど、まさにその状態にしておいた「カラマーゾフの兄弟」をこの夏ようやく読み上げられたんですよ。なのでカラマーゾフって言葉がまず浮かんできました。」

・・・というような説明をした。この説明をした時間、30秒くらいだろうか。その時のマネージャーのみならず、他の15人くらいの同僚の様子は、話していてその内容が聞いてくれている人の記憶や思い出、知識のどこかに「はまった」という感じのするものではなかった。話している方がなんだか野放しにされてどうしよう?と一瞬心許なくなるような。

唯一、アメリカ人で学生時代は確か言語だったか翻訳だったか(しかもフランス語?)を専攻としていたようなJだけが、

「あ〜、そう言えば、〇〇っていう雑誌にロシア文学の評論が載っていてね、面白かったわよ。送ってあげるね!」

と彼女らしい、明るく爽快な感じで、まったく非の打ちどころがないくっきりとはっきりとした英語で言ってくれ、救われたような気持ちになった。

その他の同僚は、カラマーゾフの兄弟という文学作品を知らないのだろうか?

同僚のうち、マネージャーを含めてほとんどがオランダ人、あとはイギリス人が一人、アメリカ人が二人(上に書いたHとJ)、パラグアイ人が一人。こう書いてちょっとびっくり。少し前まではもう少しマルチカルチュラルだったのに。まあ、オランダ人と一言で言うけれどもミックスだったり他国や文化のヘリテッジや背景を持つ人がほとんどだということはあるけれど。

だから「オランダ人て、外国文学や小説読まないんだなあ」と言ってしまうのは早合点すぎる。実際、私の夫はオランダ人だけれども、ドストエフスキーの他の作品は若い時に読んだと言っていたし、カラマーゾフの題名も知っていた。まあ、彼の家族は割と本を読む人たちなので、「一般的な」ことは分からない。まずもって、この「一般的な」というのがオランダで「どういうもの」を指して言うことなのか、そこを掘り出し始めるとキリがなくなる。

もしかしたら、私が感じた「通じていない感」そのものが偏見で、空気の読み違いだったかもしれないし・・・。

そうそう、また思い出した。カラマーゾフを読んでいて、「これ、高校生や大学生の時にもし読んでいたら、当時の自分に果たして理解できていたかな?どんなふうに感じただろう?」と思う瞬間が何度もあった。「こんなことまったくチンプンカンプンなんじゃないかなあ」と思う箇所もあったけれど、読んでいたら読んでいたで、その時の自分なりに理解していたんだろうと思う。

高校生の時、山川先生という日本史の先生がいた。彼は授業にきっちりとしたスーツに、折りたたんだハンカチをポケットに挟むという紳士的な出立の初老の(と高校生の自分には見えた)先生だった。今思うととっても恥ずかしい勉強不足なことをしたので、先生のことを思い出すと顔を覆いたくなるのだけれど、その一方で実は山川先生には密かに感謝していることがいくつかある。

そのうちの一つは、本の読み方を教えてくれたこと。

傑作は、十年ごとに読み返すもの。

というのだった。もちろん、十年もすると人は変わるので、その時々で本から感じるものが、学ぶものが変わるから、と、そういうことだったんだろうと思う。

それを思い出すと、54歳になるまで読まなかったカラマーゾフの兄弟、これはこれで良かった、と思える。たとえ高校生の時に読んでいたとしても、あの時と今とで感じること、学ぶことはきっと大きく違っていたいに違いない。






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