清掃の手法と排他性
文:和田太洋
清掃はとても身近な行為だ。わたしたちは、部屋を片付けて、ゴミを出し、スポンジで磨く。岩井優は、そうした清掃の営みを作品の主題としてきた。もっとも、そこでは清掃がいろいろな社会問題の象徴として機能している[1]。ミシェル・フーコーが行った公衆衛生にかんする議論や、メアリー・ダグラスによる汚物についての議論を想起するひともいるだろう。とはいえ、本レビューでは、KIKAギャラリーでの「二元論」展に出品されていた岩井の作品を手がかりにして、清掃の手法をいくつか具体的に取り上げてみたい。というのも、そうした具体的な手法を見ていくことで、岩井の作品に含み込まれている社会批評的な要素もいっそう際立つように思われるからだ。
早速だが、展示の内容を思いだしてみよう。ホワイトキューブに足を踏み入れると、三面の壁にそれぞれ一つずつ作品が展示されている。部屋の奥から順に、《100匹の魚(または愉悦のあとさき)》(2014年)、《二元論》(2020、2024年)、《路上のコスメトロジー》(2012年)だ。まずは、二番目の《二元論》から検討したい。この作品は、次のようなものだ。インクジェットプリントを用いて制作された二枚の平面の組。一方が他方の英訳になっており、どちらにも二列の文字列が刷られている。「きれいな水」「きたない水」(‘Clean water’, ‘Dirty Water’)から始まるその文字列は、どの行も、何らかの名詞に「きれいな」と「きたない」という形容詞をつけた二つの語の対からなる。つまり、「きれいな……」の列と、「きたない……」の列とが対置されているわけだ。タイトルのとおり、そこには二元論によって整然と分割された世界が広がっている。しかし、本当に世界はそんなふうに二つに割れているのだろうか。岩井は、そうは考えていないはずだ。というのも、冒頭にも述べたように、これまで彼は清掃を主題に制作を続けてきたからである。清掃は、きたない場所や物をきれいにする行為だ。そうであるならば、岩井が注目しているのは、むしろ、こうした二分法の越境であり、「きたない……」から「きれいな……」への移行の過程なのではないか。
汚れを転移する
きれいになっていく過程、すなわち、清掃というプロセスについて考えるには、実際に清掃しているところを見てみるのが一番だ。《100匹の魚(または愉悦のあとさき)》には、そうした具体的な清掃の場面が映し出されている。この映像作品はこんなふうに展開していく。ジョージアにあるバトゥミという港町の市場に設置された白いビニールシート。画面外から手が伸びてきて、その上に魚を100匹ならべていく。頭が左になるように並べられた魚はタイポロジー[2]的な趣をもっており、視覚的にもインパクトがある。並べおわるとまた周りから手が出てきて、今度は魚を捌きはじめた。白かったシートはみるみるうちに赤に染まり、黄色がかったワタが積み上がっていく。すべての魚を捌き終わると宴が幕を開けた。みるみるうちに魚は現地の観衆の腹に収まり、シートの上にはワタと紙皿と骨ばかりが残る。皆が満足し、魚が底を尽きると片付けの時間だ。シートに残されていた残骸はゴミ袋に入れられ、とうとうシート自体も畳まれて取り除かれる。最後にシートをのせていたテーブルを持ち去ると、偶然にもその下から魚の頭をくわえた猫が現れて映像が終わる。
ひとしきり作品のあらましを述べたところで、魚を捌いている場面まで巻き戻してみよう。その場面では、魚のワタでシートが汚されていたのだった。しかし、よく見れば、そこでも小さな清掃が行われていたことに気がつく。それは、魚を捌く人々による自らの手の清掃だ。つまり、手についた血をシートで拭ってきれいにしている。ここに、清掃の手法のひとつを見出すことができる。それは、ある場所から別の場所へと汚れを<転移させる>ことによって清掃するという手法だ[3]。この手法は、もっとも原始的な清掃方法のひとつだろう。だが、わたしたちは今でもこの手法を多くの場面で採用している。雑巾掛けもそうだし、おしぼりもそうだ。さらに、汚れの転移という特徴を強調すれば、ゴミ袋にゴミを入れて捨てる行為や、汚水を流す行為も同様だろう。汚れを、ここから別の場所に移動させるのだ。
だが、こうした手法には難点もある。それは、そうした汚れがどこに行くのかをわたしたちがあまり気にしていないところにある。少し考えを巡らせれば、捨てた雑巾やおしぼりとか、流した汚水とかを処理する人々や施設があるはずだ。だけれど、わたしたちの清掃は、目の前から汚れを移動させた時点で終わってしまう。そこには、責任の転嫁が隠れている。こうした論点は街の「清潔化」にも当てはまる。排除アートを思い起こそう。それらは、「街の汚点」である路上生活者がそこに居座れないようにする。そうすることで、彼ら/彼女らをどこかに追いやる。しかし、街から排除したとしても、彼ら/彼女らが消えてなくなるわけではない。そう、排除アートは、路上生活者を別の場所に転移させているに過ぎないのだ。では、こういった事態のグロテスクさに人々が気づいたとき、次はどのようなことが起こるのだろうか。
汚れを覆い隠す
ここで、《路上のコスメトロジー》に目を向けてみよう。この作品で岩井は、路上に落ちていた犬の糞に清掃用の薬品をかけたり、絵の具をかけたり、つけまつ毛やラインストーンでそれを飾り立てたりしている。しまいには、ガスバーナーが登場して、一切のものを炙る。もっとも、それでも糞は燃えずにそこに居座り続けていた。ここで重要なのは、その糞がどこにも移動させられていないという点だ。というのも、それは、この作品が<汚れの転移>とは異なる清掃の手法を採用していることを示しているからだ。つまり、この作品は、同じ場所に汚れを留めたままでの清掃について思考している。こうした方向性を示唆しているのは、本来は汚れを剥離させ、移動させる役割をもつオキシドールなどの薬品が犬の糞に対して効力を発揮していないということである。それでは、ここで採用されている清掃の手法はどのようなものなのか。
《路上のコスメトロジー》では、汚れであるところの犬の糞に様々な液体がかけられ、飾りが付け加えられるのだった。そうした液体や飾りによって、犬の糞は一時的にわたしたちの目から見えづらくなる。このように汚れを<覆い隠す>ことも、清掃の一つの手法だろう。散らかっているものを棚の中に収納することや、おしゃれな布をかけること、壁を塗装し直すことも、この手法に分類できる。もはや「汚れ」を移動させて他の場所に押し付けることができなくなったとき、わたしたちはそれを何か別の心地よい素材で覆い隠してしまう。蓋をしてしまうのだ。
ふたたび、路上生活者の排除と清掃の関係に立ち戻ってみよう。排除アートは、社会が不要とみなした人々を別の場所へと追いやるのであった。しかし、そうした転移ができなくなったとき、社会はどのような手段に訴えているのだろうか。それは、そうした人々を、施設の中に隔離するという手段だ。すなわち、真っ白な壁と、美辞麗句によって、路上生活者たちを<覆い隠して>しまうのだ。こうした傾向は、障がい者たちへの扱いではいっそう顕著である。
有機的な清掃
ここまで、岩井の作品から、<転移>と<覆い隠し>という二つの清掃の手法を取り出してきた。さらに、そうした清掃の手法に対応するような手段が、社会的弱者の排除にも用いられていることを指摘した。ここに、岩井作品がもつ社会批評的な含意を見ることができるだろう。しかも、そうした<転移>や<覆い隠し>による清掃を行うにあたって、それが大規模になればなるほど、複数人での協働が必要になる。《100匹の魚(または愉悦のあとさき)》でも、皆で協力して片付ける人々の姿が映し出されている。確かに、こうした協力は、これまで交わらなかった人々の間に関係を構築し、交流を生み出しているように思えるし、それは事実だ。しかし、そうした協働は、何らかの対象を「汚れ」だと見なすことによって達成されている。いわば、それは排除するという行為のもとでの協働である。もちろん、その汚れが無機物であるうちは、むしろ協働関係を築くという利点が優位にあるかもしれない。だが、その対象が生物となった場合、そこで得られる団結は極めて排他的で危険なものとなる。
何かを汚れとして見なすときに排他的な衝動が湧き起こるのならば、汚れを汚れだと見なさない清掃の手法は存在しないのだろうか。ここで、ふと頭に思い浮かんだのは、オオグソクムシを指す「海の掃除屋」という言葉だ。というのも、オオグソクムシは生物の死骸を食べることによって掃除屋としての職務を全うしているのであって、それらにとって当の死骸は汚れではなく糧だからである。すなわち、有機体による分解は、他の生物によって排除されている対象を糧へと転換する行為なのだ。こうした<有機的な清掃>は、実のところ岩井の作品にも顔をのぞかせている。それは、《100匹の魚(または愉悦のあとさき)》の終盤にひょっこりと現れる猫であり、《路上のコスメトロジー》で糞の周りを飛び回るハエである。こうした有機的な清掃は、それが可能になる条件として多様性の存在を孕んでいる。というのも、あらゆる生物が同様のものだけを糧としている場合、汚れだとみなされる対象は固定化してしまうからだ。色々な異なったものを食べる生物がいてはじめて、有機的な清掃は可能になるのである。この点で、有機的な清掃は、ある対象を汚れから糧へと転換し包摂する力を持つのみならず、多様性も呼び込んでいると言える。
もっとも、そうした多様性は意図して作り出せるものではないのかもしれない。岩井もまた、そうした有機的な清掃を自らの手で成立させるには至っていない。岩井作品に現れる有機的な清掃は、基本的に偶然性の産物なのである。そうであるならば、むしろ、そうした偶然的な多様性をどのように呼び込むことができるのかが作品制作の焦点となるだろう。統制された多様性は、限定的なものだ。むしろ、作者が作品を完璧にコントロールしないことによって、はじめて本当の多様性が作品に呼び込まれ、有機的な清掃の条件が整う。有機的な清掃を含み込んだ作品——例えば、《100匹の魚(または愉悦のあとさき)》——は、自らの枠の外へと開かれているのである。
[1] 「二元論」展の会場に置かれていた岩井によるテクストに従えば、たとえば、《100匹の魚(または愉悦のあとさき)》はジョージアとロシアの間での紛争が巻き起こった場所と近しい街で撮影されている。さらに、《路上のコスメトロジー》の制作過程で、岩井は公衆衛生とジェントリフィケーションとの重なりについて思いを巡らせていたとのこと。
[2] B・ベッヒャーとH・ベッヒャーに代表される、複数の同一施設の写真をグリッド状に配置する作風のこと。
[3] こうした手法が明示的に現れているのは、《フラッグ・クリーニング》(2010年)だろう。しかし、残念ながら筆者はこの作品を実際に鑑賞できていないので、ここでの言及は控える。
和田太洋(わだ・たいよう)
ホノルル生まれ。関西を中心に、展覧会レビューの執筆やアートイベントでの通訳を行う。論集『5,17,32,93,203,204』に「私たちの身体的な語彙」を寄稿。浄土複合ライティング・スクール4期生。