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川上弘美「真鶴」 書評
たとえば、めいかくに物語というものが前提にある媒体として、映画があり、小説があり、演劇がある。われわれはそれを消費している。とくになにも考えることもなしに、基本的に、とくにこれといった固定された視点をもたいないまま鑑賞しているはずだ。
とくに、本棚にある文庫本たちの背表紙を左から右へ追っていると、そういえばこれはこんな話だったなとだいたいの印象が思い返される。とくに意識されるようなものではなく、漠然とした、感覚的な、印象をうける。
映像作品を鑑賞したとき、そうした印象はのこるもんだろうか。媒体がちがえば、われわれは頭の「ちがうどこか」をつかい、「ちがうどこか」にその印象が記憶される。あまりに順当なことである。
小説からうけるそうした印象というのは、どこからくるのだろうか。小説だけではない、思想書だって、エッセイだってそうだ、文字のみによって書かれるものはほとんどそうした印象に収納されてしまう。もちろん詳細は思い出そうとおもえばできる。そういうことが起こっているのは、私だけだろうか。
川上弘美「真鶴」は、とりわけそうした印象が、印象らしく収納された作品だった。もしくは、それは彼女による逆算なのかもしれない。簡単にいえば、急にいなくなった夫をもとめて、妻が「真鶴」へたびたびおもむく、というはなしである。「真鶴」とは地名である。たしか、熱海とか、箱根とかの近くにあるただの町だった。
妻にはあたらしい男がいて、また、夫との娘がいて、女が男をおいかけ、女には娘である女がいて、女をおいかける男もいるということだ、女、男、女、男、とそればかり、話の内容もそればかり。「真鶴」シンプルな物語といっていいだろう。というか、川上弘美という作家自身、シンプルな作風なのかもしれない。「センセイの鞄」、「ニシノユキヒコの恋と冒険」、「水声」、それから「真鶴」。
ただ、シンプルにすることが「媒体としての小説」を最大限活用できるということを彼女は知っているのかもしれない。読んでいるうちに昔の体験がおもいだされ、とか、ハッとするフレーズにふせんをはってしまったり、とか、彼女の顔をそうぞうするといつのまにか身近にいるあの人の顔を思い浮かべていたりということがある。「文字」という、存在を伝達することに不十分な媒体はそのために、小説は物語の伝達を最大の目的としていない、というようにも思え、われわれは作者の書いた物語をよみながら、すでにわれわれの体験にもとづいた、作者が伝達しようとしたものとは別の物語を読んでいるのである。だからこそ、「真鶴」にあらわれるかずかずのフレーズは鋭く、われわれの記憶を掘り起こさせるのだ。
文庫版の三浦雅士氏による解説を読んでいると、この解説はかずある文庫版の解説とくらべても本質的で作品に忠実な解説らしい解説になっている。なかではオルフェウスの神話などをとりあげている。もちろん、神話的なモチーフを「真鶴」にかさねあわせることはまったく順当なことだ。
ただ、ここではもっと単純な作品内の構造を見たい。このでは、おおきく二つの軸がある。生───死の軸と、男───女の軸。
二つの軸は垂直にまじわり、この軸を視点は縦横無尽にうごいてまわる、というイメージだ。すごく死に接近するとき、すごく女に接近するとき。われわれは文からくみとる印象は、そうした感覚が濃密にいしきされ、そうかと思えば淡く消え去っていく。消え去っていくときにはまた対角にあるものに接近をはじめているのである。