宇佐見りん「推し、燃ゆ」 書評
まず「推し」というものがいたおぼえはない、だから主人公「あかり」に共感したとか、そういう感想はない。
2019年に芥川賞を受賞してから本作は書店の店頭に大量に平積みされ、たびたびネットニュースとしてとりあげられていたことがぼんやり記憶にのこっている。目新しいことと言えば、この「推し、燃ゆ」の文庫本が出た事だ。手ごろな価格で買えるし、(私はハードカバーをけっこうまえに購入しているが、ブックオフで売っているものでも価格は1000円をこえていた)本人のあとがきと金原ひとみの解説がついている。
ひさしぶりに読み返したのには、「推し、燃ゆ」がある読書会の課題本だったからだった。そのためこの書評は読書会のアーカイブも兼ねている。
「推し、燃ゆ」は芥川賞らしい作品か
本作の受賞は2019年。遠野遥「破局」が同時期に受賞し、そのまえには又吉直樹「火花」などがある。もはやひと昔まえの芥川賞であるが、系統的には宇佐見りんのような作家は今にかけて多い。
「東京都同情塔」から「サンショウウオの49日」、すこしそれるが、群像新人賞をとった「月ぬ走い、馬ぬ走い」など、また最近になってから若者らしい詩的なものから、テクストの本質性を「試す」ような実験的な作品がこのまれている。ただ、本作品においては、他と違う点がめいかくにあり、それは売れた、ということだ。
推しはかるに、多くの読者が「推し、燃ゆ」を購入した経緯をかんがえれば、それは本書のキャッチ―なテーマとタイトルなのではないだろうか。
スムーズに作品世界に入っていける、端的で明快な導入がある。
タイトルをみて、表紙をめくれば冒頭の一文がでてくる。
ここまでのながれで4頁。あかりにとって推しがどういうものなのか、また推しによってみちびかれる結末を示唆するような、物語のなかでまとまりのある、もしかしたらこの作品のなかでのひとつの見どころかもしれない。
ただ、この作品では、「推し」が前面におしだされ、それがメインテーマだと思われがちだが、背景にはもうひとつテーマがあり、それは「家族」である。「家族」というテーマ、モチーフはあかりを「推し」の妄信へとさしむけるが、そこで二つのテーマは関連しつつも、テーマ性としてふたつはリンクせず、水と油のようにそんざいしている。
これがなんの参考になるかわからないけれども、私の主観でこの作品をみるのならば、比率としては「推し」4割、「家族」6割くらいではないか。そう思わせるのは、作品内に感じる「時間の規模感」である。それは世代といいかえてもいいかもしれない。
「家族」からくる肉体的なもの、「推し」からくる信仰的なもの
あかりの家族にはまず母、姉、祖母がいる。父は海外に赴任していて実際に描かれることはわずかであった。すこしはなれて友だちには成美がいて、運営しているブログの閲覧者たちがいる。女性ばかりである。ただ、これは作者の作風といいきることもできる。
印象的なのは家族ではいる風呂のシーンである。
妹として姉に抱いているコンプレックスが告白されるシーンであるが、ここではそれだけが描かれているわけではない。このシーンからはどうしても「儀式」的な側面を除外することはできないだろう。
夏目漱石が水と人とに儀式的な関連を見出したように、そうした側面がつよくあらわれている。
わかりやすいものをとれば、祖母の葬式などは「儀式」そのものである。葬式とちがところは、風呂の儀式はおそらく日常的におこなわれていたものだということである。つかいふるされた例であるが、われわれは仏教徒という自覚無しに、葬式はほとんど仏教式であり、キリスト教徒でもないのに、クリスマスやバレンタインを年の一大イベントとしてとらえている。
しかし、人が死ねばそれを葬らなくてはならないし、冬至(クリスマスはもともと冬至祭だが)は一年に一回絶対やってくるのである。われわれの生活というもののうえに宗教という概念は「つけたされている」。儀式的なものがあるまえに、身体にまざまざと感じられる変化があるのである。
家族という親密な距離にある人々と儀式。しかしあかりの信仰心は「推し」にささげられている。
あかりが家族から「おちこぼれ」どころか「推し」を理解されないアウトサイダーとしてそんざいしているのには、あかりの心的世界において、「宗教」が分断されているという原因がある。それでは家族はなにを信仰しているのか、という問題ではない。あかり以外の家族、とくに祖母はバランスのある生活をしているのだ。必死にアルバイトをして、稼いだ金をすべて「推し」にささげるということはしない。共同生活をしているのに、彼女に割かれた余剰をすべて「推し」にささげ、家族に還元しないあかりは家族のなかにおいて異端である。
まとめ
異端者を描いた文学はサルトル「嘔吐」、カミュ「異邦人」からはじまり、芥川賞でも「コンビニ人間」などおおくあつかわれてきた。「推し、燃ゆ」は「コンビニ人間」のように戯画化された露骨な異端者ではなく、民衆に溶け込んだ、また一人称視点においての認知の面でも民衆にとけこんでいる異端者である。この作品は多くの人々の共感を呼ぶだろうか?「推し」という言葉の定義もさまざまである。
文脈すらあいまいな定義のさだまらない言葉を、身体性の消失したデジタルメディアでわれわれは共有している。そのなかで異端者は異端者の自覚をもたないままそんざいしているようにおもえる。いろいろなことを考えていると、時代性をこえて本作品は「嘔吐」や「異邦人」にたちかえってきた感がある。本作はとても面白くよむことができた。
漱石の水と人の関連をくわしく知りたい方は蓮實重彦「夏目漱石論」を参考にしていただきたい。