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阿部和重「グランド・フィナーレ」 書評

私は「涼宮ハルヒの憂鬱」のアニメが好きで何度も見ている。とくに好きな話は28話だ。

キョンがハルヒのちょっとした無茶ぶりにいつものようにヤレヤレとこたえ、遠く暖房をとりに出かけるという話だ。「ハルヒ」では宇宙人、未来人、超能力者がでてくるなど、ハチャメチャな話ばかりだが、この28話だけはとくになにも起こらない。SOS団の部室で朝比奈さんと長門、小泉がおもいおもいのことをして静かに時間がすぎていく。キョンと小泉はボードゲームに興じ、長門は読書をし、朝比奈さんは編み物をしてすごしている。

キョンがいなくなったあとの部室でも長門だけはあいかわらず読書している。ハルヒが朝比奈さんにバニーを着せ、そのために小泉は部室から退室し冷めた茶をすする。ところで、もくもくと読書している長門は何をよんでいるだろう。ロッカーから長門があたらしく読む本をとるシーンがある。ロッカーの奥へと長門の手が伸びてくる。フレームの左側には「グランド・フィナーレ」、右側には「蹴りたい背中」である。ライトノベル原作のアニメのはずなのに、そこで出てくるのは芥川賞なのかよ。ていうか君の本を読むスピードはどうなってるんだよ。けっきょく彼女は二冊ともキョンが帰ってくるまえに読み終えてしまう。

私はパソコンの画面から目をはなして、そういえばと本棚をふりかえれば一年くらいそこに挿しっぱなしだった「グランド・フィナーレ」をみつけた。そんなわけで私は「グランド・フィナーレ」を読んでみることにした。

「グランド・フィナーレ」は講談社の文庫本に収録されているものを読んだ。解説は高橋源一郎氏。

一文の長さと、そこにふくまれる情報がおおいため、軽快な一人語りを連想させる文体。ただ、そうした情報がほとんど主人公にむけられた自己言及なのであって、情報過多のために主人公から人間味はかんじられない。この現象が意図したものなのか、そうでないのかはわからない。解説によれば「いろんなところがへんな」小説だといわれるが、それだけでは言葉がたりないだろう。

たとえばクラブでおこなわれる世界情勢への言及と、後半における二人の女児が「自殺マニュアル」を覗いているという話。章分けされてなおかつ、わかたれた話であるということを念頭にしても、この二つの話がその後のどこかで纏まりをみてもいいのではないかと思ってしまう。

とってもありていに言ってしまえばこの二つの話は「伏線」然として小説に大きな顔をしてでてくるのだ。それを出しっぱなしにして話が終わってしまうから「へん」だとか言われてしまうのだ。

それに、もっといえば「グランド・フィナーレ」というくせに後半部分を費やして準備してきた演劇がおこなわれる場面は、実際に描かれることなく話はおわってしまう。なんでもいいから、演劇をやってしまえばすべてまとまりがついてしまうような感もある。とっても中途半端な終わり方だと言わざるを得ない。演劇がないからこそ話全体の収集もつかない。

たとえば、話の構造でいえば「カラマーゾフの兄弟」や「オレステイア」と似ている。この二つに共通しているものは「フィナーレ」が裁判によっておわることだ。「グランド・フィナーレ」における演劇部分がえがかれたものが「カラマーゾフの兄弟」や「オレステイア」ということだ。

「カラマーゾフ」とか「オレステイア」みたいにするのなら、演劇部分には元妻だけでなく、IやYも登場するし、演劇の内容は戦争から二人の子供の自殺までを包含したものになるだろう。小説における演劇や裁判という媒体はそれだけのパワーをもっているはず。それをなぜ放棄したのか私にはよくわからない。というか納得いってない。「へん」な小説とか、大分オブラートにつつんだ言い方だと思う。ほんとうは「未完成」なんだろう。
私は読み終えて不満足だった。

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