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赤ペンの教え

県の教育委員会事務局学校教育課の指導主事として3年間勤務したことがあります。当時は、全国的に「国語力」が注目されていた時期で、中学校国語科の担当であった私は、県内の子らの「国語力」の向上を図るミッションに取り組む毎日となっていました。

学校現場とはちがう教育行政に係る仕事において、一番の戸惑いは、上司の「決裁」を得ながら物事をすすめていくというシステムへの戸惑いでした。「起案(発出文書案や企画案などについて伺いを立てること)」を伴う仕事です。

この記事では、その戸惑いの中で私が学んだことについてつづりたいと思います。

当時の私の所属は、「幼小中教育グループ」です。直属の上司は、A先生でした。大変温和な先生ですが、凛とした教育信念を持ち、教育へのアツいまなざしを宿す先生です。「行政」は、先ほど述べたように上司の「決裁」を受けながら物事を進めます。今でこそ「電子起案」が進んでいますが、当時は、「紙起案」です。慣れない起案文書は、最終的にこのA先生に見ていただくことになります。A先生は、部下からの様々な起案を受けることになるにもかかわらず、時間をかけてその一つひとつにていねいに「修正の赤ペン」を入れられました。私が起案したものなどは、もう真っ赤です。それが私のもとへ戻ってきます。

決裁印の重さ
A先生の赤ペンは、「ここをこうなおしたほうがいいかもしれませんね」というものではありません。「ここをこうしなさい!」というものです。あやふやさは、一切ありません。「ここをこうなおせと指示をしたのは私です。よってこの文書が持つここからの責任は、起案者であるあなたではなく、決裁印を押した私にあるのです。」という意味あいをこの決裁印は持つのだということ。このことは、A先生ご自身の口から私にかかけていただいた言葉でもあります。時には、「この部分は、どういう意味や?」と直接呼ばれて問いただされることもありました。決していい加減にはしない厳しい姿勢です。

◎赤ペンのメッセージを読み解く
A先生に何度も同じような修正をさせる赤ペンを走らせてはなりません。A先生は、何をまずいと考え、それをどう修正することでクリアしようとしたかを、私のもとに戻ってきた起案文書から読み解かねばなりません。赤ペンは、A先生から私へのメッセージでもあるのです。「これは、A先生と私との真剣勝負だ!」と生意気にも思っていたことをなつかしく思い出します。

◎文書を受ける「相手」への意識
A先生の赤ペンのスタンスは、なんといっても「相手意識」でした。いかに端的に、いかに誤解なく、いかにきちんと相手に伝えることができるか。表現を吟味します。そして、不必要なフレーズは、バッサリとカット。A先生の赤ペンの切れ味は、それはそれは心地のよいものでした。

こうした私の「学び」は、
私が管理職となった時に生きて働くものとなりました。
保護者あての案内文書や学年通信など、さまざまなものが先生方から起案され、回議されて私のもとにやってきます。それら一つひとつに対して、今の私のすべてを出し切って「赤ペン」を走らせます。真剣勝負です。A先生を私の身に憑依させるがごとく…。A先生ならどうするだろう…。回議されてきた文書や通信は、いつしかA先生にしていただいたのと同じように真っ赤になっていきます。
そして、決裁!「私の責任」の印を押して戻します。
私の勝手な赤ペン(!?)に気を悪くされた先生がいたかもしれませんが、このことは、A先生からの「赤ペンの教え」の伝承でもあるのです。

A先生はご逝去されましたが、
この「赤ペンの教え」は、今も私の中に生き続けています。