ポン先生
学習の主体は子どもたち。子らが学ぶことを楽しみ、生涯にわたって学び続けられるような授業を創造しましょう。そのためのヒントとなるような記事をマガジン化しました。いっしょに勉強しましょう。
このnoteへ初めて投稿したのが、2024年4月24日。そして、本日、2024年10月13日のこの投稿が、ちょうど100記事目となりました! 173日をかけての達成です‼️ 私の記事「私の未来のためにできること」では、このnoteへの投稿の目的の一端を次のようにつづりました。今も変わらない私の思いです。 さて、この100記事目では、ここまでの投稿について振り返ります。 まず、総レビュー数。 多くの方に私の思いを届けることができました! 特に、若い先生や国語の先生、教師
ご存じ『徒然草』。 その第184段は、次の一文からはじまります。 相模守時頼(さがみのかみときより)の母は、松下禅尼(まつしたぜんに)とぞ申しける。 北条時頼(1227~1263)は、鎌倉幕府の5代目の執権で、名君の誉れ高い人物です。その実母が、この松下禅尼です。 この第184段には、この松下禅尼のエピソードが、次のようにつづられます。 息子の時頼がやってくることとなったある日。母である松下禅尼は、古くなった障子を自ら切り貼りし、やってくるのに備えます。しかも、障子の破
先日、ステージ研修の一環として、本年度の初任の先生らが集い、代表による実地授業に学ぶ研修がありました。ここまでの授業づくりの成果を公開しながら、学び合って力量を高めようとする研修です。 その折に、研究協議会場となったのが、図書室でした。たいへんよく整備された図書室で、図書室経営に対する司書教諭の先生や学校司書さんなどの「熱量」が伝わってきます。休み時間に、子らがすすんで図書室に集う光景が想像できます。 協議の開始を待つ間に、私も自然と書棚に目がいきます。手にしたくなるよう
ひとり灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。 文は文選(もんぜん)のあはれなる巻々、白氏文集(はくしもんじゅう)、老子のことば、南華の篇。此(こ)の国の博士どもの書ける物も、いにしへのは、あはれなること多かり。 (『徒然草』第13段による) 夜が長くなり、ただいま「読書の秋」が進行中です。 兼好法師のように「夜」ではなくとも、「朝」の読書に取り組む小・中学校も多いことでしょう。自分で用意したり学級文庫から手にした
先日、市内の中学校に勤務する教職3年目となる先生方が集まり、その代表者が授業者となって皆に授業を公開し、研究協議をしました。ステージ研修です。 公開された授業は、中学1年生の数学科の授業で、「比例・反比例」を単元とする終盤の授業です。子らと指導者との信頼関係がよくわかる授業で、授業の中でめざしたものやその手法にたいへん多くの学ぶものがありました。 実は、研修会場となったこの中学校では、本年度の校内研究の視点を「学び合い」においておられます。 この記事では、この授業をもとに
先生が求めている「答え」を言えているか? 先生が求めている「答え」を、1対1の問答において言い当てること。 指導者が「子を指名し、発表させ、それを判定する」という手法しか持ち合わせていないため、このような授業になってしまっていることがよくあります。ワザを持たぬ指導者がつくる教室は、子らの主体性を削(そ)いでいくことになります。それは、とても不幸なことです。とりわけ、若い先生は、自分が学生時代に経験してきた授業を自分の授業スタイルとしていることが多く、これが「ふつう」となって
私たちは、視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚によって身の回りの情報をとらえ、それらを統合しながら生活しています。 なかでも、視覚(ビジュアル)による情報の取得は群を抜いており、このことは、「百聞は一見にしかず」ということわざにも通じるところがありますね。 よって、学習場面において、視覚的なわかりやすさについて工夫したり配慮したりすることは、学習者の興味・関心を高めさせるだけでなく、理解を助け、思考を活性化させたり記憶に長く留めさせたりするうえで、とても大切なことであると考えます。
山あいにある小さな中学校。 その中学校に、2年目を迎える若い先生が勤務されています。 先日、その先生の授業を見せていただく機会がありました。 中学3年生の数学の授業です。3年生の全生徒は、5名。この5名を指導する授業です。 参観の前に、校長先生から次のようなお話を聞かせていただきました。 このことは、私から言えば、とても素晴らしいことです。この逆の状況がいかに多いことか。 このお話を聞いて、この5名の子らを担当するこの若い先生の授業の参観の視点が定まりました。 この記
話す力をつける授業は、どうすればよいか。 私の記事「日々、話す稽古」では、指導者としての話す力の基本・鍛錬について述べましたが、その中のいくつかは、子らにも身につけさせたいものでもあります。 次に示すものは、中学1年生の頃から取り組ませたい事項のひとつです。 これらの指導を学習活動として子らに仕組むときに必要な配慮のひとつが、子らが話したくなること、子らが聞きたくなることへの配慮です。 この記事では、私が中学1年生の国語の授業でおこなった実践について紹介します。 授業の
学級担任をつとめる先生なら、道徳の授業づくりをどのようにすすめればよいか、よりよい道徳の授業にするにはどうすればよいか、を探られていることでしょう。 手元にある読み物教材。えっ、どう使うの‥。1単位時間での完結。慣れない教材研究と「問い」づくり。「考え、議論する」授業とは言うけれど…。そのクラスで一度きり‥。学習としての評価をどうする? 指導者として道徳の授業への向き合い方に、悩みは尽きませんね。 先日も、初任者の先生方がグループごとに道徳の模擬授業に取り組み、授業づくりに
学校の図書室にとって、学校司書の配置は、とてもありがたいことです。 12学級以上ある学校には、必ず1人はいるのが「司書教諭」。教員の中で司書教諭の免許を持つ先生があたります。これに対して、「学校司書」は、学校に必ず1人はいるわけではなく、自治体によって配置されていたりされていなかったりで、配置があっても、〇曜日だけ〇〇学校に、△曜日は△△学校に行く、というような配置もあります。 私が校長を務めていた中学校では、この学校司書さんの配置が曜日を限ってありました。それはそれはありが
「話す力」をつけるための国語の授業について、ここまでいろいろとチャレンジしてきました。子らが意識して行う「話すこと」のトレーニング。このことについては、多くの実践事例が多くの場で発表されたり紹介されたりしていますから、私がこの場であれやこれやと述べる必要もないでしょう。 この記事では、子らではなく、指導者の話す力、指導者のスキルとしての話すことについて記していきます。 結論から先に言うと、 指導者が確かな話す力を身につけるためには、子らの前に立つこと自体を常に「稽古(けい
「はっきりしないもの」を、「はっきりさせる」こと。 授業づくりの中で指導者が配慮したい視点のひとつです。 先日、これに取り組む若い先生の授業に出会うことができました。 それは、中学2年生の音楽科の授業でした。ベートーヴェンの『交響曲第5番ハ短調』、皆さんも『運命』としてよくご存じでしょう。この曲の「曲想」の変化をとらえながら鑑賞するという授業です。 若い先生が、どう取り組んだのか。 次に示すものは、この曲の「動機」となる「ダダダ、ダーン」です。 繰り返し登場するこのパ
大学の学生寮で過ごしていた当時の私は、ホントに気ままな学生生活を謳歌していました。講義への出席。アルバイト。夜を徹しての麻雀。部活。横山光輝の『三国志』の読破。ダブルカセットデッキでダビングした沢田聖子を聴き、美味しい寮食で満腹。そして、寮内での自治活動…。 そんな中でやってきたのが、教育実習です。1985年でした。 中学校へ4週間、小学校へ2週間の実習です。未熟で何も手にない私でしたが、心はワクワクでいっぱいだったことを覚えています。 国語科の授業はもちろん、道徳の授業、
タイトルにある「生指」。 「なまゆび」では、ありません。 「生徒指導」のことです。いきなりびっくりしないでくださいね。 秋が深まってゆくこの10月・11月は、若い先生方の授業づくりをサポートするための学校訪問が多くなってきます。 忙しい校務の中、自らの力量をアップするためにわざわざ臨んでいただく機会ですから、充実せねばなりません。 学校訪問の折には、子らへのまなざしの向け方、指導者としての言葉づかい、学習の場のつくり方、発問の是非など、さまざまな視点を持ってアドバイスにあ
やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。 これは、紀貫之の『古今和歌集』の仮名序にある冒頭です。 中学3年生の国語の授業では、三大和歌集である『万葉集』『古今和歌集』『新古今和歌集』の中から、いくつかの和歌を味わう学習があります。 その「導入」の段階で私が必ずあつかうのが、この仮名序の冒頭の部分です。これから学習を進める「和歌」とはどういうものなのかを確かめます。 人の心の「種」が芽をふいて、葉をつけ、ひとつの「歌」となって私たちの目の前にある。和歌