法師の失敗のわけ
『徒然草』(兼好法師)の第52段「仁和寺にある法師」をあつかって中学2年生の国語の授業をすることがあります。
読者のみなさんの中にも、中学生時代に学習したという人がいるかもしれませんね。
私の記事『よい「教材、よい「問い」』(この記事の最後に紹介中)において、『徒然草』(兼好法師)の第11段「神無月のころ」を取り上げたのですが、実は、この「仁和寺の法師」と「神無月のころ」は、ぜひともセットにしてあつかいたい教材です。
まず、「仁和寺にある法師」を次に紹介します。
子らに実際に手渡す教材には、「神無月のころ」と同様に、わざと文中に【 】を入れて示します。
なぜ、セットにして学ぶか?
それは、「神無月のころ」は、「なかったらよかったもの」であり、
「仁和寺にある法師」は、「あったらよかったもの」だからです。
みごとな対比をつくることができる素材なのです。
よって、
この2つを使って行う古典の授業のテーマは、「あったらよかったもの、なかったらよかったもの」なのです。
学習前の「導入」として、自分たちの今の生活の中にある「あったらよかったもの」と「なかったらよかったもの」とを確かめ合います。おもしろいですよ。十分に時間をとります。子らからいろいろ出てきます。「ドラえもんの暗記パン」「おつりの中のギザ10」や、「水泳のあとの国語の授業」「〇〇先生の前歯にみえる青のり」など、子らの経験が楽しく吸い上がります。こうして学習への準備ができあがります。
そして、兼好法師。
「兼好法師が、あったらよかったものとしたものは何か?」「兼好法師が、なかったらよかったものとしたものは何か?」。
またさらに、この2つの素材をセットにしてあつかうことには、次の意味もあります。
それは、「神無月のころ」における「なかったらよかったもの」は、「みかんの木」でした。この答え「一択」であることがとても大切であり、この一択の答えがなぜなのかを吟味することが、兼好法師を理解する学習課題となります。
一方、「仁和寺の法師」では、「あったらよかったもの」は、その答えが一択でない、いろいろな複数の答えを考えていけるものとなるのです。
「収斂(しゅうれん)」型と「拡散」型。これもまた、みごとな対比です。
実際に、「仁和寺にある法師」で確かめてみましょう。
山の上にある石清水八幡宮の本殿には参らず、山のふもとにある付属の寺と神社をそれだと思って帰ってきてしまったという法師の失敗。しかも、自慢話として仲間に語る法師。
法師が失敗しないためは何があればよかったのかを考え合うこと。これが学習課題となります。
先に示した古文中の【 】にあてはまるものは、何でしょうか?
あったらよかったもの?
シンキングタイムです!
次のような複数の「答え」が、子らからでてきます。
どうですか。
すばらしい子らの思考。自分たちの「今」の生活と結び合わせながら、法師の失敗を様々な視点から見つめ、自分たちの生活に生かせる視点をも学びとっていますね。
「若さ」という指摘には、私自身、ドキっとします。歳を重ねた今、この法師のような失敗をしてはいないか?気持ちだけでも若くありたいものです。
さて、
実際の『徒然草』の本文にあるものは、「先達(せんだつ)」。
なかなかこの「先達」という語の口語訳は微妙で、ものの本には、
「案内人」としていたり、「指導者」「その道の先導者」としていたりします。
最近の教科書では、「神無月のころ」と「仁和寺にある法師」とをセットにして示している教科書がないのが残念です。教科書出版社は、このことを分かっていません。
国語の先生は、教材研究に活かしてみてください。充実した授業にしましょう!