詩の授業は、これでいい。
長く中学校の国語の教師をやってきましたが、「詩」を教材として扱う授業は、実は苦手でした。
基本的には、和歌や短歌などと同様に、その「詩」のもととなった「種(たね)」をさぐろう (私の記事『「種」となる心』もご参考ください。) とするのですが、指導者として余計なことをしてしまっている感がいつも残ります。やれ、この表現は?これは何を意味している?工夫している技法は?などとしてしまう学習活動に、作者へのすまなささえ感じます。「詩は、声に出して読み、受け手の解釈や感じ取り方、そのすべてを子らにゆだねる。」でいいのではと思います。
よって、
「詩」を教材として扱う授業における「主」となる課題は、「あなたに、この詩は、どう届きましたか?」となっていきます。これを、時間をかけて交流します。子らがその交流の中で気づくことに学習をゆだねてしまおう、という指導者の腹構えです。子らまかせの楽しい授業づくりです。
さて、
先日、詩人の谷川俊太郎さん(92)が、ご逝去されました。
中学校の国語の授業でも、『朝のリレー』などを取り上げて学習しました。様々な表情を見せる詩的な言葉が、力をもって私たちに届く。そんな詩人でした。なかでも、『生きる』と題する詩は、何度ふれても変わらない感銘を受けます。
特に、この詩の第2連。
私は、この第2連がとても好きです。
美しいものとみにくいものとが混とんと存在するこの世界。「美しいもの」と出会う高揚感。そして、それとは正反対のものを「注意深くこばむ」ことも生きることであるいうこと。この詩の中にある、「わたし」が「生きること」をつくっていくのだ、という深いメッセージ。
特別な表現技法やむずかしい言葉がならぶ詩ではありませんが、この第2連は、生き方の「教え」「指針」として私の心に強く、そして、深く届くのです。
「あなたに、この詩は、どう届きましたか?」。
そのことを、皆で語り合えること。詩の授業は、これでいいのだと思うのです。
谷川俊太郎さん、素敵な詩をありがとうございました。ご冥福を心よりお祈りいたします。