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時空がうつろう旅、紀伊路(佐々木淳/紀伊路SCAPEリサーチディレクター)
自分はいまいったい、何をしているのだろう。
そう思わずにはいられない、どうにも「茫漠とした」時間の連なり。
そんな時間にだんだん馴染んでいくと、次第に自分の知覚や気分のほうが変わっていき、いつのまにか心身がすっかり入れ替わってしまう。
リサーチャーとして、足掛け3年をかけて紀伊路をリサーチしてきた。
大阪~田辺(~清姫)の全線踏破も3回行った。文字通り10日間連続での全行程体験だ。その上で、紀伊路の旅を偽りなく、そしてややざっくりと表現するなら、冒頭のような感じになる。
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カプセルのような別の時間
この旅を、私たちは「ナリ・ユキ(の旅)」と呼んでいる。
その含意のひとつは、旅の長い時間の途上で「何かになり」、そして終着地へ「ゆく」ということ。もうひとつは旅全体を通じて「何かになり」、そして現実世界へ改めて「ゆく(=戻る)」ということだ。
それは当然、グルメや癒やし、思い出作りのための「観光」ではないし、ましてや仲間とちょろっと楽しむ「日帰りの手軽な旅」でも到底ない。
だから、インバウンドで盛り上がっている「中辺路(熊野古道)のトレイル風山歩き」とか、紀伊路の一部をツマミ食いする歴史ウォーク、などとは対極の旅である。
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なにしろ歩きだしたら、止めることはできない。
そして10日間ずっと、旅の時間に身を投じることとなる。雨が降ろうが風が吹こうが関係ない。そしてそこに、人生ではじめて「カプセルのような別の時間」がたちのぼってくる。
とはいえ、旅にあたって特段の覚悟を要する、というものでもない。
むしろ、流れゆく人生時間の底流に「ぼんやりとした、表現しにくい」不充感や欠落感をどこか感じているなら、思い切ってこの旅に時間を投じていただきたい。
ただし、少しばかりの体力は要る。30キロ前後を歩く日が多くあるからだ。紀伊路を歩くと決めたら、数週間は、暇を見つけて歩く癖をつけるとよい。
予備知識はあってもなくてもよいだろう。
(下手に歴史や文化を詰め込んで頭でっかちになってしまうと、かえって旅の時間から新鮮な味わいが逃げてしまう)
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紀伊路に流れる時間とは
紀伊路の旅は大阪の淀川べりから始まる。
大阪都心からの南下、紀州への入国、いくつもの辛い峠越え、ひなびた山里、海が見える感動。これらを経て、9日目に南紀田辺に着く。
そして、中辺路の一部である清姫まで川を遡る(できればそこで2日を過ごす)。これが、私たちが提案していく旅の行程となる。紀伊路の旅でありながら、中辺路行程を一部含むのが特徴だ。
大阪~清姫の約250キロを歩く長い時間。
そこに立ち現れるのが、先にも述べた「人生ではじめての、カプセルのような別の時間」。切れ目のない「長い線としての時間」だ。 別に喩えれば、一つの長い楽曲ともいえる。時間の線は、あたかも旋律のようでもある。
では、それはいったい「どんな」時間なのか?
これについては、踏破を行った仲間のメンバーからも今後、ここで語ってもらう予定だ。「私たちがこれから提案していく<新たな>紀伊路の旅」について、ビジネスプロデューサーがその旅時間の意義を述べるような回もあるだろう。「どんな」の意味するところは、実は広い。
そこで今回は先陣として、紀伊路の旅とはいったい「どんな」時間なのか、まずはそのざっくりした骨格の面を紹介してみようと思う。
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現世から懐かしい時空へ
紀伊路が「どんな」旅路か、と聞かれれば、それは「時空のうつろい」の旅だ、と私なら返す。
そこに、一貫した時間の遡行があるような「うつろい」だ。
つまり、あたかも現世(の大都市)からだんだんと時間が巻き戻りはじめ、人里や山里などがある懐かしい時空へとさかのぼり、幽玄たる自然のみの原郷に戻っていくような、そんな旅の時間ということだ。
それは誰の演出でもない。実際の沿道が、そうした時間の流れを自然に形づくっている。
ただ、どこから時空が変化したのかを旅の最中に気づくのは、実は難しい。少し経ってから、「ん?時空がいつの間にか変わっちゃったな?」と気づくことがほとんどだ。でもその都度、私たちは思い返して、「ああ、あの辺から感じが変わったな」と確かめていった。時空のうつろいがもたらす「感じ」を敏感に受け取りつつ歩くことで、旅の時間の味わいもまた深くなる。このことだけは、知っておいて損はない。
街里や集落、山里の風景に身を委ねていくと、数日前まで普通にあったものが消えていき、それまでなかったものが徐々に風景の基調をなしてくる。
なくなっていくもの、そのほとんどは人工物だ。
一方で色濃くなるのが、野生の自然、そして土着文化や信仰の痕跡。これらのバランスで時空が変わる。10日間歩き続けて初めて、このうつろいに身体で気づくことができる。
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頭ではなく、身体でわかり、かわる
そして、この時空の変化こそが旅する者のメンタル、ひょっとしたら人生観をもいつのまにか動かしていく。頭ではなく「身体でわかって」、かわっていくのだ。
この時空の移ろいの中に、救われる場所やほだされる時間、ハッとする光景や超越を感じる空間、そんなものが数多くある。これらについても、今後また紹介していく予定だ。
ところで、歴史に忠実な紀伊路のルートをただ歩くだけだと、見逃してしまう素敵な風景というものが、たくさんある。普通なら立ち寄ることもないだろう道脇の林、一本裏手の生活道。時空のうつろいを見事に暗示する光景。
潜在するこうした魅力を独自に見つけ、ルートを一部変え、旅の時間に豊かなリズムを織り込む。時間と手間はかかるが、こうした「旅の時間体験からみた紀伊路の再定義」こそ、私たちの<新たな紀伊路の旅>の特徴となるだろう。
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新たな紀伊路の旅、頭ではなく「身体でわかって」いく旅。それは「長い時間のカプセル」となる。
そのカプセルの中で、人の原郷である自然や生命との一体感、これらが理屈ぬきにわかってくる。AIや仮想世界、遺伝子操作など「文明」の進歩が加速していくこれからの時代。人々の人生時間の中には、間違いなく紀伊路の「長い時間のカプセル」が必要とされていくだろう。
そしてそれは、民族や宗教をこえて希求されるものとなっていく。ここのところ、ますますそう思うようになってきている。
ということで、今回はまず紀伊路の旅が「どんな」ものなのか、それを大掴みな骨組みの観点からまとめてみた。
今後もこちらでは、紀伊路の魅力をさまざまな人の視点からお届けしていく予定だ。
《佐々木淳 プロフィール》
旋律デザイン研究所代表。
大手広告制作会社入社後、CM及びデジタル領域で約20年プロデュースに携わる。CannesLions、ロンドン広告賞、NY Festivalなど国内外各種広告賞受賞。
UX・事業戦略領域へ転じ、UXラボ主宰・UX戦略/事業開発部長を経て
AI時代を見据えた研究開発に専念。クリエイティブの知をデータ化する「Creative Genome Project」の研究を経て、非広告分野への応用モデル「Belief Finder」を独自開発。
2020年に旋律デザイン研究所を設立。 「モノ・コト・ヒト・空間がもたらす気分を解析し、QOLを仮説創造する」ことをミッションに、コンテンツ配信、都市開発、企業ヴィジョン立案など広い領域にて活動中。
紀伊路SCAPEではリサーチディレクターとして、プロジェクトの企画に全面的に携わる。
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