バラ色の人生。
12歳のとき「人生はバラ色」であるらしい、ということをサッカー元日本代表の中澤佑二選手から教えてもらった。
私は小学校5年生からサッカーをやっていて、中学、高校と合計で8年のあいだ、ずっとサッカー少年だった。
サッカーの神様に選ばれなかった私は、監督から言われるがまま、選ばれなかった選手なりに努力を覚え、太陽が沈むまでひたすらにボールを蹴るサッカー少年だった。
サッカーを始めて1年後の小学6年生のとき、Jリーグのプロチームに手紙を送ったことがある。鹿島アントラーズ、コンサドーレ札幌、ベガルタ仙台、横浜F・マリノスの4チームに。
どんな手紙かというと、とても単純な話で「どうしたらプロサッカー選手になれますか?」というものだった。
実際のプロサッカー選手が私と同年代のころ、どんな練習をしてどんな気持ちでやっていたか、プロとなったいま大変なことはなにか等の質問をしまくる手紙。
サッカー少年というのは単純なもので、戦闘力をリフティングの回数で競う。当時の私はまだ200回連続だとかがセキの山で、全国をみれば柏レイソルユースなどには同年代で2万回を超える猛者もいた。
プロ選手の少年時代はどうだったのだろう。
この単純な好奇心も手紙に書いた。
手紙を送ったはいいものの、待てど暮らせど返事は返ってこなかった。子どもだもの。ベガルタ仙台もコンサドーレ札幌も鹿島アントラーズも手紙を返してはくれない。
ところが唯一返ってきたチームがあった。
横浜F・マリノスだ。
しかもその手紙の主は中澤佑二選手であった。
「お手紙ありがとう」から始まり、小さな私のつたない質問に丁寧に答えてくれている。なんなら手紙には中澤佑二選手のサイン入りのカードまで同封されていて、私はもう胸いっぱい。
中澤佑二選手といえば、ボンバーヘッドが代名詞である。日本代表にまでのぼりつめ、キャプテンもつとめた。いまでは選手を引退し、少しお調子者の解説者あるいはタレントとしてテレビで見ることもある。
中澤佑二選手が苦労人であることはサッカー通の人であればみんなが知っているところ。小学6年生でサッカーを始め、練習生としてJリーグの世界に飛び込み、セレクションを受けまくる。特別な才能もなくお金もなかったので電車代を節約するために歩きまくったり。
まさしく努力の男である。好きだ。
私が出した手紙の質問には、中澤選手からこんな回答が書いてあった。
Q.リフティングは何回できましたか?
え! そうなんだ! 中澤選手でも小さなころはそれしかできなかったの!? いまの僕のほうがすごいじゃん! 単純なものですっかりその回答を信じこみ手紙を読み進める。
Q.プロ選手になって大変なことはなんですか?
えー! すげぇ〜! 人生ってバラ色なんだ! と思ったものだ。人生がバラ色だということを、私は12歳のときに中澤選手から教えてもらった。
そして思う。
本当に人生はバラ色だね。
あの手紙はもしかすると中澤選手ではなく、マリノスの広報担当の人が書いたものかもしれない。本人からであったとしても、そうでなかったとしても嬉しかったなぁ。
子どもの夢を壊さないよう、夢を追いかけ続けてくれるよう対応してくれた横浜F・マリノス。
小さなころの私の夢はとうとう叶わなかったけれど、あれからマリノスのことはずっと好きだよ。
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